『Seven Days War』 創作 クリスとエリック ネタバレ注意


その日クリスは、珍しく残業をして勤め先である、公国図書館から帰宅の途についていた。
図書館から、クリスの住んでいる公立女子寮は、街の中心を挟んで反対側にあり、向かうには真っ直ぐ、中心部を抜けて、人の賑わいを見せる商店街を 通らねばならなかった。
日も既に落ちた夜に近い夕方、クリスは足取りも重くひたすら家路を急いでいた。


「………………………」


いつも、仏頂面で他のものをものともせずに、物凄い勢いで歩いているクリスだが、今日は勝手が違った。
田舎町アインスの古本屋から、首都ゼクスの公国図書館に勤め始めてしばらく経ち、仕事にも慣れてきた今日、仕事で叱られたのである。

二十五年間一人で働いて生きてくれば、人から怒られることなど山ほどあったが、さすがにこれが仕事のこととなると、堪える。
クリスはプライベートが非常に淡白な人間で、怒られることによって、あまり感情を表すことはない。その代わり、その場から無言で消えるタイプなのだが、 仕事は勝手が違う。


注意されたからといって休むわけにはいかないし、不機嫌な顔を出すわけにもいかない。
仕事は、クリスにとってただ生活の糧を得るためだけのものではあったが、その金を得る手段に対して、クリスは自分自身に責任を課していた。

金をもらっている以上、万全を尽くすのは当たり前。
嫌なことがあっても、それが仕事。

こうして割り切ることにより、クリスは自分の精神を一定状態に置けるように、自己制御していると言ってもいい。
なるべく淡白に仕事をし、それでも決して他人に自分の仕事を押し付けたり、手を抜くようなことはせずに過ごしてきたクリスだが、決して万能の霊長ではないのである。
仕事をしていれば、失敗の一つや二つや百はある。
だが、そのあるという事実は、やはりクリスの心を重くするのだった。





失敗自体は、大事になるようなものではなかった。
女子寮で顔見知りになった人間が、閉館間際に駆け込んできて、どうしても早急に必要だからと、手順を踏まずに本を借りていったのである。
明日、貸し出し手順をふめばいいだろう、と判断したクリスが、一旦は断ったものの、知り合いの勢いに押されて、本を貸してしまったところに、 たまたま上官が通りかかったのだった。

「手続きをしないで本を貸し出すということは、その本に対する責任を放棄するということだろう。もし、紛失でもあったらどうするつもりなんだ。 それに、手続き表を見て、その本があるものと判断したほかの職員が、正式な手順を踏んで借りたいと言ってきた人間に、何と説明する気だ?  気づかぬまま、貸し出しの手順をしてしまったら、ないとわかったときに頭を下げるのは、君ではないんだぞ」

クリスは反論の言葉もなかった。
上官の言うとおりなのである。

自分のやったことは、職員としてしてはならないことであり、相手が顔見知りだろうが、信用できる人間であろうが関係ない。
本という物言わぬ物体を扱っているとしても、扱うのは人間であって、その人間がいい加減な仕事をしていたら、借りに来た人間に対しても、 共に働く人間に対しても、全くもって無責任なことだった。


その場で上官に謝罪し、去っていった人間を追いかけることは出来ないから、クリスの名前でその本を借りたことにし、台帳に記入して、 無許可で借りた本人には早急に連絡をつけること、ということでその場は収まった。

クリスと同じ寮に住んでいる以上、帰れば会えるのだから、本の確保事態はそう難しいことではない。
明日にでも、当人の名前で正式な手順を踏んでもらえれば、その場で問題は解決する。

だが、そんな、やってはいけない当たり前のことをしてしまった自分に、クリスは腹を立て、自分に不愉快になっているのである。


はっきりと断れなかった自分も情けないし、なあなあで仕事をしてしまった自分も悔しい。
知り合いだから波風立てたくないと思ったのも事実だが、上官に言われたようなことをその場で、考えることが出来なかった自分がどうしようもない。


よくある話だ、と多分他の職員は言うだろう。
大して咎める人間もいないのもわかっている。
無許可の貸し出しなどよくある話で、クリスを叱った上官も、今までに何度もやったことがあるだろう。


でも、だからといって、やっていい理由にはならないし、「他の人間もやっている」などという言い訳にもならない言い訳をするのは、もっと嫌だった。


鋼鉄の心臓を持つと呼ばれるクリスだが、人に叱られたり、注意されればやはり辛い。
人から非難されるのも、呆れられるのも苦しい。
今まで自分が積み上げてきた、自分の仕事が、一つの失敗で台無しになることを、社会経験の長いクリスはよく知っていた。


真面目に考えすぎだ、とか、明日になったら上司も忘れているだとか、自分で自分を慰めようと思えば、いくらでも思いつくが、そんなことはしたくなかった。
真面目、真面目というが、度が過ぎなければ、仕事に対して真面目であるということなんて、何の誉め言葉にもならないのだと、クリスは常々思っていたからだった。


結局自分を慰めようと思えば、相手を非難したくなる。
細かいことでいちいちうるさい。
お前だって、普段よく影で休んでいるじゃないか。
いくら上官だからって、あんなことで目くじらを立てることないだろう。

心の中では、悪態をつきたくもなる。
誰か、他人に愚痴も言いたくなる。
だが、こと仕事に関してそういう感情を持ち込むのは嫌だった。


クリスが自分を慰めるために、自分を注意した上官を悪く思うのは、完全にお門違いであり、それを彼女自身もわかっているものの、そう思いたくなってしまう 自分の心そのものが嫌なのである。


人に、自分の愚痴を聞かせるのも嫌だった。
誰かと共感できる愚痴ならいいが、自分の失敗を、「貴方のせいじゃない」と言ってもらうために、他人を利用するのはごめんだった。


こうやって、ぐるぐる考え込むこと自体が、自分に似合わないということをクリスは知っていた。

元々、即断即決で生きてきた人間で、長く思い悩むタイプではない。
けれど、思い悩めば、それは悩みであって簡単に解決できるものばかりではない。

失敗そのものは、明日すぐにでも解決することではあったが、自分が失敗をしてしまい、そして仕事に対して無責任で、上官に対して非難の目を向けてしまいそうな 事実そのものが、クリスの顔をうつむかせていた。


―いい歳した大人が、ずるずると考えることじゃないよな。子供じゃないんだから。


ずるずると、自己嫌悪の泥沼に陥るクリスは、彼女にしては非常に珍しく、ゆっくりとした速度で家路についたのだった。





露天や、様々な店が並ぶ商店街は、夜になっても活気がある。
食料品を売っている店もまだにぎわっているし、酒を扱う店はこれからが本番だろう。

人ごみの中を、クリスはとぼとぼと歩いていた。
落ち込んではいるものの、散財をして気分を晴らそうという気にはなれない。
散財するほど財産がない、ということもあるが、落ち込んでいても自分の生活レベルから逸脱しないのも、クリスの生き方だった。


「おい」


誰かに真正面から声をかけられて、クリスは顔を上げた。
人ごみの中でも、知り合いに出会ったり、声をかけられればすぐにわかる。
周囲に対する注意力が、クリスは敏感な性質だったから、自分に声をかけた相手が目の前から、すたすたと歩いてくる姿を、すぐに確認した。




「………こんばんは」

覇気のない声で挨拶した相手は、クリスが率先的に会いたいと思える人物ではなかった。

青銅色の髪をし、銀色のふちのない眼鏡をした相手は、長い外套を羽織り、旅姿でクリスの前に現れた。
相変わらず、目の奥で色の薄い瞳が、厳しく相手を見透かすように光っている。
外出に際しては珍しく帽子を被っていないが、周囲の人間は誰も、その男が、公国ゼクスの若き大公であると、誰も気づいていないようだった。

大公エリックは、声をかけた相手が、いつもと様子が違うことに気づいたのか、いないのか、いつものように人を食った薄笑いを浮かべながら、 クリスの目の前で止まった。


「珍しいな、こんな時間にうろついているなんて」
「今日は、残業がありまして」
「残業? お前が? 普段、時間内に仕事を終わらせるのも仕事のうちだと言ってるお前がか。何か図書館で揉め事でも起きたのか?」
「………別に何もありませんでしたよ」

揉め事、と言われると苦しいが、特に上官ともめたわけでもない。
ただ一方的に叱られただけで、明日もその上官に会わなければならないのかと思うと、気が沈む。


「いつもと同じです。貴方は何でこんなところをうろうろしてるんですか。お供もつけずに」
「俺が供などつけて、歩くわけないだろう」
「えばらないでくださいよ。公子の時とは身分が違うでしょう」
「名ばかりの公子だったときも、今でも、俺は俺だ」
「………そうでしょうね。クラウドさんも気の毒に」
「気の毒だと思うのか? あいつが」
「すいません、実はあんまり思いません」



クリスとエリックの関係は、奇妙といえば奇妙だった。
一介の図書館勤めの独身女と、若き大公には、何の接点もないように見えるが、その実、男が女を一方的に追い掛け回し、半ば強引に主とゼクスに 連行したという、実に笑えない関係なのである。
惚れているのは男で、惚れられている女は、迷惑以外の感情を、男に見せることは全くなかった。
男はそれに気づいていても、追いかけることも、ちょっかいを出すこともやめず、いつも二人の会話は、喧嘩腰か、ギスギスしたまま終わるのが常だった。
クリスはエリックに対して、顔も見たくないほど嫌いだ、とは思っていないが、男として好きかと問われると、真っ向勝負で否定するくらいの気概はあった。

だが、天敵同士であるエリックとの会話は、クリスに、会話だけはいつもと同じように行えるような、精神の安定をもたらしていた。





「今日は、散歩ですか?」
「いや、ちょっと視察だ。仕事とはいえ、街の外に出る機会は滅多にないからな」
「また、よからぬことをして周りの人間に迷惑をかけたんじゃないでしょうね………」
「迷惑がる人間がいなければ、面白くない」
「面白がられても困りますよ。本当にいい加減なんですね………」
「まあ、今回は日程も含めて、正直そんな余裕がなかったからな。ゼクスは、俺の親父の威光で諸外国との関係を保っていたようなものだから、 俺は俺で、各国とのパイプを確立しなければならないし」



思いがけず、真面目な話になり、クリスはエリックをまじまじと見つめた。
獅子王の息子であり、大公になる気など全くなかったこの男が、今、こうして大公として仕事をしている。
それが何のためなのかはわからない。
内容を聞いても、言わないだろうし、クリスも国家間に対しての質問をするほど、無分別ではなかった。

いい加減で、他人に迷惑をかけることを楽しみ、いつも人を小馬鹿にしているような、お世辞にも性格がいいとはいえない男。


―この上に構えた目線も、国を治めるためには必要なんだろうか。


出来すぎた王の息子として、見くびられることは必至だった。
それを払拭するために、自分の個性を強く出すことによって、エリックはエリックなりのやり方で、大公としての勤めを果たしている。


それに比べて。
それに比べて、私はなんだ。
国を治めるという仕事をしているこの人に比べて、私は。
おまけに、この人が真面目に仕事をしていないんじゃないか、という目線まで向けて。
いい加減なんて言って。
いい加減なのは、この人じゃない。私のほうなのに。

こんな失礼なこと、どうして思ったんだろう。





「クリス?」
顔には出なかったが、エリックの目の前にいるクリスは、明らかに言葉を失ったようだった。
「おい、腹でも痛いのか」
「痛くないです」

からかい口調に、素っ気無い返事がくるのも、いつもどおりだ。

だから、この後はきっと、
「ごめんなさい、私これで失礼します。エリックさんも、気をつけて帰ってください」
そう、こんなふうに、簡単な挨拶をして別れるのだろう。


クリスはエリックの脇を通り過ぎようとした。
その腕をはっし、と掴みエリックは仰天した顔のクリスに向かって言った。



「腹が減った。食事をするから、お前も来い」






クリスは死ぬほど嫌がったが、天下の往来で大公と騒ぎを起こすわけにも行かず、そのままずるずると近くにあった料理屋に連れて行かれた。

店内は繁盛しており、エリックは慣れた様子で店の奥にあった席についた。
無言で、手前にあった椅子をひく。

「………………………」
クリスはその様子を見て、奥の席につこうとした。

「おい」
「は?」
「お前が、こっちに座るんだ」


エリックにそう言われて、クリスは初めて、エリックが自分に対して椅子を引いたのだという事実に気がついた。


「あ、ああ、はい、すみません。ありがとうございます」
エリックは礼を言われることでもない、と言いたげに、クリスを座らせ、自分も奥の椅子についた。
され慣れないことをされたクリスは、結局上手く席につけず、がたがたと次勢を直している。
その様子を見て、エリックはおかしそうに言った。

「お前は、本当に慣れてないな」
「こういうことはまるで駄目ですね。というか、エリックさんが私にこういうことをするとは、全く思っていなかったので、予想外でした」
「俺は仮にも、公子として英才教育を受けてきたんだぞ? マナーなんて出来て当たり前だろう」
「できるのは当たり前かもしれませんけど、するとは思いませんでした」
「お前は、俺に対する印象を、いい加減改めたほうがいいんじゃないか」
「これ以上どう改めろと。クラウドさんあたりがやったなら、すぐに気づいたんでしょうけどね」
「おい」
「はい?」
「お前、さっきからクラウドのことばかり言うが、それは俺に対する嫌がらせか何かか?」
「は? そんなわけないでしょう。偏りがあるなら、他のアレンさんや、ベルナドットさんのことを引き合いに出したっていいですけど」
「やめろ。食事が不味くなる」


二人の会話に割り込むように、店員が注文をとりに来た。
エリックは「ビア」と頼み、クリスは「お茶ください」と言った。


「酒場に来てお茶か」
「お酒飲めないんです。コーヒーは食事中にはちょっと。好きなのはコーヒーですけど」
「食べられないものがあれば言え。外す」
「特にありません。出されればなんでも」


エリックは対して種類の多くないメニューを広げ、数種類のメニューを頼み、またにやりと笑う。
値段も何も考えない注文の仕方に、クリスは、「金持ってる人の注文の仕方だなあ」と、心の中で思った。


「お前、酒飲めないのか」
「飲めない………というか、飲もうと思ったことがありません。飲んでも美味しくないので。美味しくないものをわざわざ飲もうという気にはなれません」
「不味い酒ばかり飲んでるからだろう」
「今まで出会ってきたのが、安いのは確かですけど。でも、やっぱり美味しくないって事は、体質に合わないってことなんじゃないんですかね」
「果実酒も駄目か」
「うーん、ビアよりは飲めるかもしれませんが、どうでしょうね」
「氷で割るとか」
「薄くなってもアルコールの味や、匂いはしますし………って、何でそんなにお酒について聞くんです?」
「上手い手段だと思ったからな」
「手段?」
「お前が酒を飲めないなら、酔い潰して連れ去るってのも、ありだと思っただけだ。いいことを聞いた」
「………貴方の目の前でお酒を飲む機会なんて、一生涯ありませんから、その計画は頓挫したと思ってください」



にやにや笑うエリックと、平たい目でそれを見ているクリスの前に、ビアとアイスティーが置かれた。


エリックはグラスに注がれたビアを持ち上げると、目の高さまで上げて、
「乾杯」
とだけ言い、差し出した。


顔だけはいい男が、グラスを持つ仕草も優雅に、目の前にいるのである。
さすがのクリスも、眼福さかげんにぼーっとしたが、その辺は、常識人のシード選手である。


「乾杯」
同じように一言だけいい、自分のアイスティーのグラスを、かちん、と相手のグラスにぶつけた。



エリックは、グラスに入ったビアをごくり、と喉を鳴らして半分ほど一気に飲んだ。

「………………………」
「なんだ? 阿呆ヅラ下げて」
「いや………」


―美形の男は何をしても、絵になるなあ。


改めて振り返れば、クリスはエリックとこうして対面で座り、じっくり食事をしたり、話したりという経験が一度もないのである。
どこかで立ち話をしたり、言い争ったり、馬車の中で険悪なムードになったりしたことはあったが、面と向かって、仕草を見たことはない。
手を伸ばせば届く距離で、美形で若い男が、喉を鳴らしている姿は、恋愛感情に疎いクリスから見ても、魅力的な男の仕草であることは、 間違いなかった。


「俺に見惚れるなら、もっと夜にしろ」
「そうか、店内が薄暗いから、八割り増しによく見えるんですね」

黙っていればいい男なのかもしれないが、口を開けばろくなことを言わない。
呆れた口調で、クリスもアイスティーを一口飲んだ。
店内は騒々しく、おかしな二人が同席していても構う様子もない。
店の席は殆ど埋まっており、男女の席も多かった。

「随分繁盛しているんですね」
「お前、来たことないのか」
「ありません。外で食事すること殆どないので」
「寮で食事しているのか?」
「そうですね………。ありがたいことに、朝と夜は作ってくれますから。自炊しないですんでいるので、助かってます。 エリックさんも、美味しいものを作ってもらってるんでしょう? こういうお店って来たことないんじゃ」
「そんなわけないだろう。二年前のことを忘れたか」




二年前。
公国の中で最も治安の悪い場所に、一人でふらふら出歩いていたエリックを思い出して、クリスはため息を着いた。




「………そうでしたね」
「まあ、逆に首都ではあまり大っぴらに出歩けない身分ではあったからな。だが、生まれて育った街だ。来たばかりのお前よりは詳しい」
「そうですね。私もアインスなら、エリックさんよりは詳しいですしね」


会話は時折途切れ、時折再会される、という形で、注文したメニューが届くまで続いた。

狭いテーブルに、どん、と大皿を三つ並べられ、いっぱいになる。
並べられたのは、チキンのローストに、生野菜のサラダと、ゴルゴンゾーラチーズとエビのペンネだった。


「あの」
「何だ?」
「エリックさん、お酒飲むんでしょう? あんまり………」

酒を飲むつまみになるようなメニューではなく、どちらかといえば、普通の食事に近いラインナップに、クリスが首をかしげると、
「つまらないこと気にするな。お前、嫌いなものはないと言っただろう」
若干不機嫌そうな様子をされ、クリスは黙り込んだ。


―注文慣れしている人だなあ。


察するに、酒を飲まないクリスに気を遣ってくれたらしい。
それを、気を遣った相手に一目で看破されたのが、面白くないのだろう。
せっかくの好意なので、クリスも黙っていただくことにした。


「食べられないわけじゃないですよね、三つとも」
「ああ」

クリスは、備え付けの取り皿に、ひょいひょい、と三種類のおかずを盛り付けてエリックに差し出した。

「本当はお皿を変えたほうがいいんでしょうけど、テーブルの上に乗り切れませんしね。はい、どうぞ」


エリックに差し出された皿には、実に均等におかずが盛り付けられていた。
他人と食事を殆どすることのない、クリスの行動が多少意外ではあったが、エリックはすぐに思い出す。


―こいつは、他人に気を遣うことに慣れてるんだったな。


気を遣っている、という意識もあまりないのだろう。
大公に気を遣っている、という意識は完全にない。
クリス自身は、特別見た目を気にすることもなく、自分の取り皿に雑然とおかずと盛り付けていた。自分が食べる物自体は、どうでもいいのだろう。



「じゃ、いただきます」

クリスは元々、食物摂取に対する意欲が薄い人間だったが、美味しいものを美味しいと思える機能はあったし、頼んでくれた相手を不愉快にさせないくらいの 常識はあった。

ぱくり、と料理を口に運ぶと、
「うん、美味しいです」
と、にこやかに笑う。


その様子を見て、エリックも自分の皿に乗せられたおかずを、フォークでつつきながら食べ始めた。
クリスは関心がないから食べないことも多いが、別に摂取量が少ないわけではない。だが、大食いではない。
エリックは、特別関心もなければ、摂取量も多くなかったので、大皿の上のおかずは一向に減る気配を見せなかった。



「美味しくないんですか?」
「いや、別に」
「………なんか、美味しくなさそうに見えるんですけど、態度が」
「わりとそう言われるんだがな。俺自身は特に意識したことはない」
「小食なんですね」
「それはそうだな。フルコースは基本的に、長々と食べる場だから、全部食べていたらきりがない」
「なるほど。そういう食生活を続けていると、小食になるのかもしれませんね」


フォークを使う仕草は洗練されているが、食べている様子は、全く美味しそうに見えない。
ビアばかりを飲み、殆ど手付かずの皿を見て、クリスは「こりゃ、残さないためには自分が頑張らないと駄目だな」と、しみじみ思った。


「でも、食べ物残すのは勿体無いですから、少しでも頑張って食べましょうよ」
「お前が食えばいいだろう」
「無茶言わないでくださいよ。大皿三つもあるんですよ? 私も頑張りますから、エリックさんも頑張ってください」
「残せばいいだろう」
「勿体無いことは、しない主義です」

クリスは、自分の皿におかわりをもりつけ、エリックに、
「これなら食べられる、っていうのあります?」
と、尋ねた。

「腹が膨れるものはいらん」
「ビアなんて飲むからお腹が膨れるんですよ。じゃあ、はい、サラダ。たんぱく質と炭水化物は私が頑張りますから、野菜頑張ってください」
「海老は好きだ」
「じゃあペンネ食べればいいじゃないですか」
「ペンネは腹が膨れる」
「注文のうるさい人だな………」

クリスはそれでも、ペンネの皿から海老だけをより分けて、新しい取り皿に乗せた。

「はい、海老どうぞ」
「………………………」
「ビアをおかわりするまえに、お皿の上のおかず半分には減らしてくださいね。ノルマとして」




エリックは、目の前で食事をするクリスをしみじみ眺めた。
食べる仕草が洗練されているわけでもない。
どちらかといえば、ぱかぱかと口を開けて食べ物を摂取している、という感じだった。
いちいち笑ったり、味わったりしている動作はあまりない。
残さない、ということが今のところクリスの第一課題であり、他の事は置いておかれているのだろう。

そのおかしな方向に一生懸命なところがおかしくて、エリックは海老を食べながら小さく笑った。




「? 何か?」
「いや。海老が美味い」
「そうですね。料理はとっても美味しいです。だから尚更、残したら作ってくれた人に悪いですよ」

クリスは、アイスティーを一口飲んで、フォークを置いた。

「エリックさんは、視察の帰りなんでしょう? こんなところで食事をしていていいんですか? って、今更ですけど」
「別に構わないだろう。周りの人間は、俺より先に公国に戻っているはずだし、報告は明日の朝にでも定例会議ですればいい」
「………大変なんですね、朝から会議ですか」
「大公の仕事は、会議か、捺印するかのどちらかしかないからな」
「どちらも、大変ですよ」
「………仕事は何でも大変だ、というのは、お前が言いそうな言葉だな」
「私が? そうですね………。でも、やっぱりエリックさんは大変ですよ。何も知らない私からこういうことを軽々しく言うのもなんですけど」
「………………………」

エリックは次の言葉を待った。
だが、クリスは少し疲れた顔をするばかりで、何も言わない。

「お前は、すぐ顔に出るな」
「………自分では、出さないようにしているつもりなんですけど、やっぱりまだ修行が足りませんね」


クリスはクリスで、エリックの仕事の大変さを感じると共に、何か自分に気を遣って、この食事の場を設けてくれたことを、薄々察してはいた。
だからこそ、余計に自分のことではなく、エリックに対して気を遣わなければと思い、自分のことを言うつもりはなかった。



「………………………」
「………………………」



会話が途切れ、エリックはビアを、クリスはアイスティーを飲んだ。


「ダイアナは、元気ですか?」
「ああ。元気すぎるくらいだ。毎日、ばたばたと俺に説教に来る」
「説教されるようなこと、しなきゃいいんですよ」
「クリス」
「はい?」
「回りくどいのは、お前に似合わない。言いたいことがあるなら言え。なくても言え」
「………………………」


クリスは、困った顔をしていた。
エリックは、真面目な顔で見返した。


「………別に、何もないんですよ。本当に。これは本当なんです。大事になるようなことは何も」
「知るかそんなもの。お前が話したいと思うことを話せ」
「………仕事で、ちょっと失敗して。それだけです」




クリスが内容を言うことをしなかったのは、あまりにつまらない失敗だったためと、自分が口にすることで、エリックが自分に対する見方を変えてしまうのではないかという、 小さな恐怖からだった。

クリスはエリックに深い感情を抱いていない。
ある日、エリックに婚約者が現れたところで、諸手を上げて祝福するだろう。
けれど、自分に好意を持ってくれている人間の感情を、否定に変えるかもしれない情報を与えるのは、怖かった。


嫌われるのは、怖くて辛い。


―普段、邪険にしているのに、何てこう………ずるいんだろう。


一度口にしたことで、クリスはますます自分の感情の卑怯さを感じ、疲労していった。
言われたエリックも、睨むような眼差しのまま、追求してこない。

何か言わなければ、と思い、クリスは必死で言葉を探した。




「でも、ありがとうございます。気を遣っていただいて」
「俺が、お前に?」
「本当は、仕事で疲れているエリックさんを、私が気遣えなくちゃいけないのに、すみません」

クリスがそう言うと、エリックは心底嫌そうな顔をした。

「俺はお前に気遣ってもらうほど、弱い男に見えるのか」
「そういう問題じゃないですよ。誰だって、人に気遣ってもらえれば嬉しいでしょう。弱いとか、弱くないとか関係ないですよ」
「俺はごめんだ。お前に気を遣ってもらいたくなどない」
「………そうですね。でも、それは私もです」


エリックが最後のビアを飲み干すと、クリスは少しだけ悲しい顔で笑った。


「それに、私があからさまに元気がなかったり、愚痴なんて言ったりすると―がっかりするでしょう?」
「何?」
「そういうキャラクターじゃないですから。こう常に、威嚇して歩いている男っぽい感じじゃないと。あ、勿論好きでやってるんですけどね、普段は。 好きも嫌いもないかな。そんな感じでいることは、ごく自然で何ともないことなんですけど。でも、そうじゃなかったら、きっと、 普段の私を知っている人は、何だ、って思うと思うんですよね」


力ない声ではなく、はっきりとクリスは言った。
自分がどう見られているか、自覚して。


「だから、なるべくそういうことしたくないんです。だって、カッコ悪いでしょう? 愚痴を聞いたり弱音を吐いたりするのは、 悪いことでも何でもなくて、聞くことは全く嫌じゃないけど、でも、ほら、私には―向いてないんです、きっと」


―本当に、一人で生きてきた人間なのだ。
エリックは、初めて聞いたクリスの弱音に、何も言うことができずに、黙るしかなかった。
クリスは、言ってすっきりしたのか、穏やかな顔をしている。


穏やかな、割り切った顔。




エリックの嫌いな顔だった。





「だから、エリックさんは偉いですね。いつもちゃんと、自分でいて。………多少個性が強すぎる気がしないでもないですが………」
「お前の個性も、相当だろう」
「お互い様でしょう。だから、エリックさんもあまり無理しないでください。聞けることなら、聞きますから。勿論、それで気が楽になるのならですけど。 いや、楽にならなくてもいいかな。ただ言いたいだけ、ってこともありますしね」
「その言葉、そのままお前に返すぞ」

他人のことばかりよくわかり、自分のことは置いてけぼりのクリスを見て、エリックは腹立たしげに言った。

「私だって、普通の社会人ですよ。落ち込むこともあれば、他人の目も気にします」


クリスは、当たり障りのない返事をして、
「半分食べ終わりましたね。じゃあ、ビアおかわりしますか?」
その会話はこれで終わりだ、と言うかのようにきっぱりと言った。


「………クリス」

だが、エリックはそれを許さなかった。



「はい?」
「他人のことを気にして言えないのであれば、俺にしろ」
「は?」
「俺に言え。俺が聞く。俺はお前が何を言おうが、お前から目をそらしたりしない」
「………………………」
「普段のお前じゃないお前を見て、離れていく奴がいるのなら、それはただ、お前を愛する資格のない人間だ」
「………………………」
「秘密厳守だ。高くつくぞ。大公様に情報を与えるんだからな」
「………エリックさんが、一番こういうの嫌いかと思ってました」
「俺が?」
「出会いも、それ以外も、私、絶好調に爆弾発言でしたから。そういう私しか見せていませんでしたから」
「馬鹿を言うな。俺がお前の弱音なんて、最高に美味しいネタを逃すわけないだろう? お前は今夜この場で、俺に返しきれない借りを作ったわけだ」
「じゃあ、これから私は、必死でエリックさんの弱みを見つけないといけませんね。借りを作ったままでいるわけにはいきませんから」





クリスは、笑おうとしながら、はらはらと泣いていた。
初めは隠そうとしたようだったが、テーブルを挟んで向かい合っている相手に、上手くいくわけがない。


エリックは、泣くなとは言わなかった。


鞄から取り出したハンカチで、目と鼻を押さえ、うつむくクリスの足を、テーブルの下で、とんとんと小突く。


「?」


何とか涙を抑えようとしていたクリスが、思わず顔を上げたところには、エリックの顔があった。
テーブルに身を乗り出したエリックの唇は、クリスの瞼の上に軽く触れる。





「うわっ!」


物凄い勢いで、顔をひくクリスを見て、エリックはいつもの笑みを浮かべた。



「鼻水、出てるぞ」
「貴方は神経がどっかから漏れてますよ!」












結局食事は、クリス6割、エリック死ぬ気で4割という割合で食べ終わり、二人は店を出た。
見上げると、既に月と星が昇り、道行く人間も少ない。

「夜になると、冷えますね」
「暖めてやろうか」
「あ、今凄く冷えました。周りの空気が」

クリスは、他人に見せたことのない弱音を吐く姿を、よりにもよって、エリックに見られたことにより、憮然としていた。


―その場の勢いとはいえ、何を言ってしまったんだなんてこったああもう最悪だ。


結局、ただの意地っ張りであるクリスを隣に、エリックはにやにや笑っている。


「………今となっては、その眼鏡すら叩き壊したくなるほど憎いです」
「これがどんな関係があるんだ」
「何もないです。でも、こう、ぬぐいきれない腹立たしさが」
「あんなに親切にしてやった相手に、それか」
「あれって親切って言うんですか!? 最後何、あれ!?」
「送っていってやろうか? それとも俺のところに泊まるか」
「いやもう結構です。いい加減早く帰ってください。明日も仕事あるんでしょう」
「まあな、お前もあるんだろう?」
「ええ。遅刻でもしたら大変ですから、私ももう帰ります」


クリスは、くるりとエリックの真正面に向いた。


「今日は、ごちそうさまでした。それから、お仕事お疲れ様でした。あと、ごめんなさい」
「何がだ」
「いい加減、とか言ってしまって」


言われたエリックは、覚えてすらいなかったのだろう。一瞬、眉間に皺を寄せた姿を見て、
「食事をする前に、私がそう言ったんです」
クリス自身が説明した。


「言ったか、そんなこと」
「覚えてないんですか………。でも、覚えていなくても、私が言ったことは事実ですから。すみませんでした」

わざわざ頭を下げるクリスを見て、またキスのひとつでもしてやろうか、とエリックは考える。

「私が、言うべきことじゃありませんでした」


クリスは、下げていた頭を上げて、今度は笑う。


「それじゃあ、おやすみなさい」
「………………………」


このまま連れて帰ってやろうか、というエリックの妄想は泡のように消え、お互いに別々の方向に歩き出す。

ほんの少しだけ離れた時点で、クリスは、
「エリックさん」
その国の大公を呼び止めた。

振り返る銀色の髪の男に、
「―今日は、本当にありがとうございました」
そう言うと、小走りに走っていってしまう。


「………………………」


人に謝罪はできるのに、感謝の言葉は遠くから、恥ずかしそうな声と共に放たれる。



「………本当に、こっそり酒でも飲ませて担いで帰れば良かったな」



不埒な想像をしながら、エリックは上機嫌で公宮へ向かったのだった。





次の日。
クリスはいつもより早めに家を出て、早めに職場である図書館に着いた。
開館の準備をしながら、出勤してきた上官に、「おはようございます」と挨拶をすると、「ああ、おはよう」と、上官はごく普通にいつもどおりの挨拶を返してきた。
今日の午前中に当人が手続きに来るからと告げ、昨日の失敗を改めて謝ると、上官は、「そうか、これから気をつけるようにね」とだけ言った。
その声が、冷たいものではなかったことに、クリスは心の中で大きく安堵し、たったそれだけで気分が落ち着いたことを感じた。


―こういうことの積み重ねが、仕事なんだろう。生きてくって、こういうことだものな。


日々の仕事に精を出すクリスには、結局、昨夜の恥ずかしい出来事だけが、大きな借りとして残ったのだった。