『Seven Days War』 創作 真夏の夜


天上から嫌と言うほど浴びせつけられる太陽の日差しは、とっくになくなったはずなのに、何処までも暑い。
地面はからからに干からび、その上を歩く人間の肌は、自身の流した汗でべとべとにぬれていた。

「………暑い………」

公立図書館勤務のクリスは、家路に急ぐ人々の波にひたすら身を任せつつ歩いていた。いつもは颯爽と競歩かと思える速度で移動しているクリスだったが、さすがにひんやりと薄暗い図書館から出てきたばかりでは、その速度も鈍る。
おまけに、公国が管理している女子寮は、何故か町の中心から離れた場所に位置しており、その距離までもが恨めしい。

「男子寮はもっと近くにあるのに…。これ、どんな差別…」

実際、男子寮に比べて女子寮は、廃屋を買い上げて急遽しつらえたようなものらしく、利便性には全く富んでいない。普段は文句のつけようがないが、さすがに毎日毎日炎天下の中、仕事帰りに延々歩かされるはめになると、愚痴の一つも言いたくなるクリスであった。

「もう日は落ちてるのに、この蒸し暑さって、何なんだろう…。今年も水不足にならなきゃいいけど」

農業以外生きていく術がない故郷を思い、クリスは思わず眉間にしわを寄せる。考えても仕方がないことだが、天候にも悪態をつきたくなるほど、今日の暑さは度を越していた。
昨日は、暑さに加えて突風まで起こり、まるで熱波の中に身を置かれたようだったが、風もない今日は今日で、蒸し風呂かと思うほどに辛い。

早く帰宅して、体を拭きたい。
せめて、この体の線に妙にぴったり合っている制服は早く脱ぎたい。
公立図書館の制服は、夏冬問わず同じものだけに、クリスとしては、腕まくりをして、スリットをより深くして対応したいところだが、二の腕を出して仕事をしていただけでも、上司に「はしたない」と叱られたばかりなので、それもはばかられた。

ともかく、一刻も早く帰ろうと、疲れた体を引きずるようにして速度を上げる。
町の中心から大分離れたせいか、人の数もまばらになり、辺りにはとっくに夜の闇が覆っている。
町の外れには住宅地が広がるものの、その中には、どう見ても人が住んでいないものも多い。
仮にも、公国の首都に廃屋が立ち並んでいるのはどうかとクリスは思うが、逆に、首都ならではの光景なのだと、現在の大公には呆れたような口調で説明された。




「不特定多数の人間が集まる場所だからな。一攫千金を夢見て挫折した奴、とにかく首都に家を持つのが貴族の社会的地位として必要だと思っている奴らさえいる。親父の頃は、特にその色が強かったみたいでな」
「………でも、あのお父様がそういう、ただ群がってくる人たちを重用するとは、とても思えませんけど」
「そうでもない。親父は、何もないところから人をすくい上げるのが抜群に上手かったからな。使える奴は、何でも使うのが親父の主義だった。実際、美味い汁を吸った奴もごまんといたんだろうが、逆に、どれだけ家柄のある人間でも、使えない奴は容赦なく切り捨てたからな。廃屋も増えるだろうさ」


有能な前大公は、実際それほど他人の力を必要とする人間ではなかった。
それでも、彼は人を選び、使い、捨てるのが、奇跡のように上手かった。
父親に対する評価が、自分に対する評価と重なるかのように、辛辣な言葉を告げた現大公を、クリスは、何も言えずに見つめ返したのを覚えている。




他にも、物価の高さや、土地代が払えないというような、金銭的な理由もあるのだろう。
ある意味、格差の象徴とも呼べる崩れかけた屋敷は、買い手がつくまでそのまま捨て置かれる。
勿体無いと思いつつ、クリスにはその家屋敷をどうすることも出来ない。

廃屋といっても、元々金をかけた贅沢な作りのものが多く―だからこそ買い手を選ぶのだろうが―主は遠ざかっても、管理する人間の姿だけは、ちらほら見えたりするのも不思議な光景だった。
彼らはきっと、前払いされた金額分だけは働くか、最低売れる程度に建物を整えるために雇われた、持ち主とは遠い世界の人間なのだろう。




「あ」

女子寮に程近い、庭のスペースをたっぷりととった豪華な白亜の豪邸には、いつもこの時間、門の前に立つ人間がいる。
クリスが残業して帰宅する時間帯、涼しくなってくる頃になると、いつも一人の男が屋敷の前でたたずんでいた。
痩せて細長い印象の強い、覇気のない顔立ちをした青年は、薄い髪の色の向こうから、夜の景色が透けて見えるようだった。目じりも眉も下がっており、泣いているのか笑っているのかよくわからない表情で、青年は外壁の変わりに植えられた生垣の草をむしっている。

いつも大体同じ時間に帰宅するクリスは、必然的にその人物と顔見知りになっていた。

クリスのどこかぎこちなく頭を下げる仕草に、相手は瞬きをしながら「こんばんは」と穏やかな声で返事をしてくれた。


「ご精が出ますね」
「いいえ」

あまり饒舌ではないらしく、クリスと名も知らぬ男との会話は、この程度で終わるのが常だった。
それでも、クリスは物腰柔らかに話す男の声が好きだったので、変わらぬ口調に、体の疲労が少し抜ける思いがする。

「今日も暑かったですね」
「そうですね」
「いつも大変ですね。お庭、広いですから」
「そうでもないですよ」


今は住む人のいない屋敷の庭を、何故管理しているのかはよくわからない。
一度尋ねてみたこともあるのだが、男は静かに笑って「これが私の役割なので」と言うばかりだった。
某かの事情があるのだろう。ひょっとしたら、先に前金をもらってその後に家主がいなくなったのかもしれない。話したがらないということは、言いたくないということなのだろう。

クリスにとって、男が抱える事情には興味がなく、ただほんの一瞬挨拶が出来れば、相手に踏み込むつもりはさらさらなかった。


律儀に主のいない庭を手入れし続ける男は、珍しく自分からクリスにこう言った。

「お気をつけてお帰りください。最近この辺りも物騒ですから。出歩いたりしないように」
「は、はい。気をつけます。でも、大丈夫です。ここから近いので」

驚きつつ、慌ててうなずいたクリスをみて、男は眦をさらに下げて小さく笑う。

「おやすみなさい」
「おやすみなさい。明日はもう少し涼しくなるといいですね」


互いに名乗ることもなく、これから先も過ごすだろう相手に背を向けて、クリスは家路を急いだ。
その背中を追いかけるように、ちぎられた雑草が夜の風に舞って、足元を通り過ぎていった。






「クリスさん! 知ってますか?」
「何を?」

休日、クリスは現在の大公の妹であるダイアナに、お茶に誘われて豪華な一室に腰を下ろしていた。
燃えるように鮮やかな色をした赤毛が、日の光に照らされてとても美しい。夏の若葉のような緑の瞳は、くるくるとよく動いてこぼれおちそうなくらい大きく映える。桜貝のように可憐な爪をしたダイアナの細い指先が、ティーカップを振り回さん勢いでせわしなく動いている。
常に朗らかで、微笑を絶やさないダイアナを見ると、クリスはいつも気分が沸き立つのを感じた。

「町外れにある廃屋に、幽霊が出るんですって!」
「幽霊?」
「ええ! クリスさんは見たことありますか?」
「いや………ないけど………」

クリスは心霊現象の類に興味がない。
怖いかと聞かれれば、それはまあ多少はと答えるだろうが、見たことがないものなので反応の仕様がないというのが正直なところだった。出会えば困りもするだろうが、二十五年間生きてきて遭遇したことがない以上、これから先もお目にかかることはないのではないだろうか。

「もう、町中の噂らしいですよ! 私、この前行ってみたんですけど…」
「行ってみたの!?」
「ええ」

可憐な外見をよそに、さすがの行動力。
さすが親を亡くして、一人で自分の存在すら知らない兄に会いに行こうとするダイアナは、さりげなく活発一面を覗かせてくる。

「そんな、危ないなあ。ゼクスにだって、若い女性が一人で歩いちゃいけないところだってあるのに」
「それは大丈夫ですよ。ほら、クリスさんが住んでいる女子寮のすぐ近くなんです」
「女子寮の近くに、幽霊屋敷なんてあったかなあ」
「ほら、ぐるっと周りを生垣に囲まれてる、白い別宅のことです」


そう説明されれば、思い当たる節は一つしかない。
いつも穏やかに挨拶をしてくれる、庭師の青年がいるあの屋敷に違いなかった。


「え、でも、ええ? 確かにもう誰も住んでいないみたいだけど、あの屋敷に幽霊なんていないと思うよ」
「そんなことないですよ! いるんですって!」
「私、毎日あの屋敷の前を通って帰ってるけど、一度も見たことないし」
「だから、出るのは夜なんですよ。私も昼間見に行ったら、なにもいませんでしたし」
「だったら、何もいないんじゃないの? 初めから」
「でも、夜には出るんですよ、幽霊が! ね、だからクリスさん………」

ずい、っと身を乗り出してくるダイアナの勢いに押され、クリスは持っていたカップを落としそうになった。

「な、何?」
「今度、夜に見に行ってみませんか? 肝試しですよ! 夏ですから!」
「………はあ?」


目を輝かせておねだりしてくるダイアナに勝てるものなど、この世に存在しない。
特にクリスは、自分より年少の人間に対して甘い部分もあり、それがゼクスでの唯一の友人と言ってもいいダイアナの願いとくれば、断れるわけがなかった。


「でも、私たち二人だけって言うのはちょっとなあ………。何かあったときに、対処できないし。私はともかく、ダイアナみたいに若い女の子が、夜にふらふらしているだけでも無用心だよ。………エリックさんに何言われるかわかったもんじゃないし」
「お兄様のことなら心配要りませんよ。今、外交でいないんです」
「………ああ、だからこの計画を思いついたんだ………」


泣く子もさらに泣かせるような、性質の悪いダイアナの兄―現在の大公―が、可愛い妹の夜遊びなど知ったら、おそらく命はないだろう。
どれだけ精神的に酷い目に合わされるか、想像するのも嫌だったが、ダイアナはすっかり乗り気で、にこにこと微笑んでいる。


「………うーん、でも、やっぱり二人だけっていうのは駄目。危ないし」

きっぱりと、年長者の威厳を見せ付けるようにクリスが言うと、ダイアナは首をかしげて
「あ、だったら、騎士の方たちをお誘いしませんか?」
とんでもないことを言った。

「ええー!?」
「そ、そんなに嫌がらなくても。ちょっとした夜のイベントですよ。息抜きもかねて、声をかけてみましょうよ」
「ええ………」


クリスの眉間のしわが、ますます深くなる。
正直、全く気が乗らない。
肝試しだけでも出来れば勘弁して欲しいくらいなのに、鬼の兄貴の目を盗んで妹を連れ出した挙句、公国の要とも言える騎士まで引き抜いたら、今後この首都では真っ当な生活が営めないのではないか。

しかも、ダイアナが声をかけようと言っているのは、どう考えても、クリスにお熱の三人組なのである。


「アレンさんと、ベルナドットさんと、クラウドさんと………」
「ぜ、全員に声をかけなくても」
「こういうのは大勢の方が盛り上がりますから!」

すっかり盛り上がったダイアナは、勢いよく椅子から立ち上がった。

「さ、行きましょう、クリスさん!」
「ど、何処に?」
「勿論、お三方を探しに行くんですよ!」


クリスに選択肢はなかった。


「仕事かもしれないし」「忙しいかもしれないし」「大体不法侵入だから」というクリスの無駄な抵抗は、「聞いてみなくちゃわかりませんよ」「行ってみなくちゃわかりませんよ」「黙っていればわかりませんよ」の三段階で見事に片付けられ、クリスは昨日と同じように照りつける火の中を、三人の騎士を探して町へさまよい出る羽目になったのであった。






一人目は、案外簡単に見つかってしまった。

「………なんだかお前、凄く………」
「………鬼のような形相してます?」
「ま、まあそうだな。体中から近寄ったらいけないような雰囲気は出てる」


とりあえず、騎士舎にと向かった二人の前から、見知った青年が姿を現した。
真っ白な騎士服に身を包んだ、金髪碧眼の美青年ベルナドットは、汗一つかかずにクリスの姿を見つけると、小走りに近づいてくる。


「出てますか………。出てるでしょうね………」
「お前、どうしたんだよ。何かあったのか?」
「いえ、あったというか…。これからあうというか…」
「何言ってんだお前。悪いものでも食べたのか?」

珍しく歯切れの悪いクリスの口調に、真剣に心配になったのか、ベルナドットは眉根を寄せて自分の手をクリスの額に当てた。

「うわっ!?」

突然触れられた手のひらに仰天して、クリスが思わず後ずさると、それを追いかけるようにベルナドットが少しだけかがんで顔を近づけてくる。

「熱でもあるんじゃないのか?」

飛びのいたクリスは、視界に広がる整った顔立ちを凝視するはめになり、歯を食いしばって顔が赤くなるのを防ごうとした。

「な、ないです! ないです、大丈夫! 何もないですよ! 何もないったらないです! だから急に触るのよしてくださいよ! 勘弁してください!」
「そこまで嫌がらなくたっていいだろう!? どれだけ狼狽してんだよ、お前!」

だかそれは全く上手くいかず、クリスとベルナドットは、至近距離で顔を見合わせてひたすら赤くなるしかなかった。


「こんにちは、ベルナドット様」
「あ、ああ。ダイアナ」

そんな二人を他所に、ダイアナはクリスの後ろでにこにこと微笑んでいる。

「二人で散歩か?」
「いえ、ベルナドット様を探していたんです」
「僕を?」
「ええ。あの、今晩なんですけど、何かご予定はありますか?」

呼吸を整えているクリスの横で、ダイアナがベルナドットに尋ねると、少し困った声が返ってきた。

「ああ。今夜は新しい庭師が夜に到着する予定だから、家にいないと」
「うわあ、貴族っぽい予定」
「お前、そのリアクションやめろよ! 僕がいない状態で、新しい人間を屋敷に上げるわけにもいかないだろうが!」
「でも、そんなの、使用人頭に任せればいいじゃないですか。どうしても駄目ですか?」

見上げるダイアナに、ベルナドットは表情を曇らせたが、やはり云とは言わなかった。

「遠方から来る人間だからな。普段屋敷にいないだけに、こういう時くらいは僕が対応しないと」


ベルナドットは、首都ゼクスに屋敷を持っている。幼少時に育っただけで、騎士となってからは騎士舎にある自室で生活をしている身分としては、あまりいい思い出のある家ではないらしい。
正確には彼の父親の屋敷だったが、とある事件で親が失脚した後は、ベルナドットの名義となって、その管理を任されている。

特に欲しいと一度も願ったものでなくとも、手放すまでは自分のものなのだから、責任を持つ。

「大体、長い間勤めてくれた人間の次の奉公先も決めなきゃならないだろう? その方が面倒だ」

そうぶっきらぼうに言ったベルナドットの横で、クリスはその気持ちが嬉しくて、心から笑った。

ベルナドットは顔を赤くしながらも、クリスの見せた笑顔に対して笑い返した。




「そう………ですか。残念です」
「なんだ? 何か大事な用でもあったのか?」
「いえ、別に。大事な用というわけでは」

さすがに、無関係の人間に「今晩他人の家に不法侵入しに行くんです」とは言えない。
曖昧に笑うクリスに、頭を下げるダイアナを見て、ベルナドットは不審そうな表情を向けてきたが、それ以上は何も言わなかった。

「まあいいや。ダイアナがいるなら、お前も無茶なことしないだろ」
「普通、逆じゃないですかね、その役目」
「何言ってんだ。お前、自分ひとりだとどれだけ無鉄砲なのか、わかってないのかよ」
「大丈夫ですよ。私がついてますから。ね、クリスさん」
「ダイアナまで………」




「何かあったら、夜でもいいから来いよ」と告げて、ベルナドットは去っていった。

「残念でしたね」
「うん、でも用事があるなら仕方がないよ。それに、騎士服を着てたってことは、今も執務の最中なんだろうし、あまり時間を取らせるのも悪いから。仕事から帰った後で、連れまわして疲れさせるのも悪いしね」
「後のお二人は、付き合っていただけるといいですね」
「そ、そうだね」


頼むから、二人とも出張であってくれ………! と切実に祈ったクリスだったが、その結果は半分だけ叶えられた。






「今晩? 別に用事はないが」
「あああああああああ」
「何でがっかりするんだ、クリス」

騎士舎の自室で、クリスとダイアナを出迎えたアレンは、無表情のまま淡々と答えた。
がっくりと床にくず折れるクリスに、アレンはつかつかと歩み寄ったかと思うと、ひょい、と腕力のままにクリスを抱え上げて立たせる。

「うわあ!?」
「大丈夫か? 立てるか?」
「もう立ってますよ! 立たされたんじゃないですか、アレンさんに! ど、どうして皆さんはこうも勝手に近づいてきて、勝手に触りたがるか!」
「皆さんって、他に誰が君に勝手に触ったんだ?」
「怒るとこそこですか!? そうじゃないでしょう!? 怖い顔して怖い声出しても駄目ですよ! こっちの許可を取るまで半径五メートル以内に近づかないでください!」
「遠すぎる」
「アレンさんが近すぎるんですよ!」

怒鳴られているにも関わらず、アレンは何処吹く風で、神妙な顔をしていた。真っ黒に短い髪に、緑がかった黒い瞳。りりしい眉毛は殆ど動くことがなく、表情にも、言葉にも乏しい人間ではあったが、ここぞという時はすべての相手を一撃で倒すことができるほどの、戦闘能力を持った有能な騎士。見上げるほどに背の高いアレンは、いつも首だけを折れそうなくらいにクリスに向けて折り曲げ、瞬きもせずによく見つめてくる。

「で、今晩何かあるのか?」
「はい。町外れの別宅に………」
ダイアナが事情を説明すると、アレンは
「それは不法侵入だ。それに、廃屋なんていつ崩壊するかもしれない場所に行ってどうする」
と、きっぱりと拒絶した。

「そ、そうですよね! そうなんです! 危ないですよね!」
「危なくないですよ! 見た目ほど中身は壊れてませんし、少し様子を見て幽霊がいなければすぐに戻ってきますから!」
「駄目だ。大体、幽霊などいるわけがない」
「いるかもしれないじゃないですか!」
「いないだろう。少なくとも俺は見たことがない」
「だったら、今日確かめに行きましょうよ! 初めて幽霊に会えるかもしれないですよ?」
「特別会いたいと思ったこともない」
「うわあ、未だかつてないほど、アレンさんが頼もしく見えます」
「………今までどんな目で俺を見ていたんだ………」

ふくれっ面のダイアナにも、アレンは折れることがなかった。
駄目だの一点張りに、さすがのダイアナもむっつりと黙り込む。

「肝試しをするのは勝手だが、せめて教会の墓場くらいにしておけ」
「墓場ならいいんですか………」
「教会内は出入り自由だしな。教会内部の人間もいるだろうから無人ではないし、崩落する危険性もない」
「そりゃ青天井ですからね………」
「わかったな、ダイアナ」

アレンの重い声に、ダイアナは如何にも渋々といった感でうなずく。

「クリス、君もあまり夜出歩かないように。最近、たちの悪い人間がうろついているとの情報もある」
「あ、それ私も聞きました。本当なんですね」

首都ゼクスの治安維持も担っている騎士がいうのであれば、本当なのだろう。
あの青年が言った通り、不穏な空気が漂っているのであれば、尚更肝試しをしている場合ではなかった。


「あの、念のためお聞きしたいんですが、クラウドさんって今どちらにいらっしゃいますか………?」

万が一、享楽的な性格を絵に描いたようなクラウドを発見し、ダイアナが食い下がりでもしたら、大変なことになる。
世間一般の常識から遠く離れた場所で生きていて、自分が関心があるものにしか心を砕かないクラウドが、面白半分で乗ってこられでもしたら、収拾がつかないどころか、一番最悪な形で収拾がついてしまう可能性すらあった。

亜麻色の髪をして、いつも怪しく微笑む男は、大公直属の騎士であり、他の騎士とは一線を画す生き方をなし崩しに選んで、今も漂っている。


「奴ならいない」


アレンの簡潔な言葉に、思わずクリスは安堵のため息をつく。

「あ、お仕事ですか?」
「おそらくは」

詳しい説明は一切せずに、アレンは唐突に黙る。
クラウドが仕事で不在ということは知っていても、その内容についてまでは知らないのかもしれない。知っていてもアレンは勿論言わないだろうが。
他の騎士が公国の守護のために存在しているのと違い、クラウドは大公に直接仕えている。立場的には騎士の称号を与えられていても、その仕事内容は秘密裏に進められることが多かった。

それだけ、暗部を見てくるしかなかったクラウドの生き様を思うと、クリスはとても悲しくなる。だが、相手はそんな表情を見て、何故かいつも嬉しそうに抱きしめようとしてくるので、余計に悲しみは募るばかりだった。






三人の騎士全員に断られて、クリスとダイアナは、無言で騎士舎を後にした。

「ま、また今度ね。肝試ししたいなら、また別の機会に………」

意気消沈するダイアナに、クリスは必死で話しかけるも、返事はなかった。
クリスの寮に寄りたいというダイアナを引き連れて、気まずい雰囲気の中重い足取りで歩く。
無言のまま町を歩き続ける二人の上から、陽光は容赦なく突き刺さってくる。じりじりと地面を焦がす真昼を過ごしていると、幽霊なんてものがこの世にいるとは、どうしても思えなかった。

「………幽霊って、どんな幽霊なんだろうね」

こんな昼間の夜は、熱帯夜に決まっている。幽霊も汗をかいて眠れない夜を過ごしたりするのだろうか。

「私が聞いた話だと………」

ぽつり、とダイアナが口を開く。

「何でも、美少女の幽霊らしいです。まつげの長い、肌が白くて、長い金髪がきれいで、真っ白な寝間着を着ていて、青い瞳をしてて」
「お約束だね。おっさんとか、犬猫の幽霊ってあまり聞いたことないもんなあ」
「絶世の美少女で、病気で若くして亡くなって、いつも窓から外の世界を見ているんだとか」
「ああ、深窓の令嬢っぽい」
「胸元には青い大きな宝石のネックレスが輝いて、その光が外から見えるんだそうです」
「幽霊の目撃談って、大体怪しい光が始まりだったりするもんね。それにしても、詳しいね、ダイアナ」
「色々調べたんです。一昨日の風の強い日も、あの別宅の前まで行って………」
「下見までしたんだ………」
「中に入りませんでしたけど。場所を見ておきたくって」
「その時、お屋敷の前に誰かいなかった?」

いつも庭木の手入れをしている青年からは、幽霊の話など一度も聞いたことがない。
他愛もない会話をする間柄ですらないのだから、クリスに自分が勤めている屋敷の噂話などしたくもないだろうが、幽霊が出る屋敷などで働きたいほど酔狂な人間には見えなかった。

「いいえ、誰もいませんでしたよ?」
「じゃあ、時間が違ったのかな………。仕事が終わった後に、あの屋敷の前で男の人によく会うんだけど」
「夕方に行ったんですけど、誰にも会いませんでした」
「うーん、まあ毎日仕事をしているわけじゃないだろうしね。昼間の間は暑いから仕事してないのかも」


とぼとぼと並んで歩いている間に、日は傾き夕暮れに近くなった。
相変わらず気温は高く蒸し暑いが、それでも照りつける日差しは多少弱まる。
もうじき寮にたどり着く、というところで、クリスたちは必然的に噂の廃屋の前を通りかかることになってしまった。




「あ」

昨日夜に出会った青年が、屋敷の門の前に立っていた。
何かが気になるのか、辺りをきょろきょろと見回している。

「あの人だ」
「お知り合いですか?」
「うーん、知り合いというかなんというか。ここにお勤めしている人みたいなんだけど」
「………そうなんですか?」

青年は何かに夢中で、近づくクリスに気づく様子もない。

「あの、こんにちは」
「!?」

声をかけてみると、心底驚いたのか目を丸くしている。普段の物静かな様子は何処にもなく、急に声をかけてきた相手に不審そうな目を向けていた。

「あ、あの、どうも」
「………あ、ああ」

もごもごと、口の中だけで曖昧な返事がきこえる。

「あの、ちょっとうかがいたいことがあるんですけど」
「何だ?」
「失礼だったらすみません。あの、このお屋敷に幽霊が出るって話、聞いたことありませんか?」
「幽霊?」

青年は、呆れたような声を出した。全く覚えがないのか、呆れたようにクリスに向けられる視線が平坦になる。

「長い金髪がきれいな、少女の幽霊なんです。身に着けている宝石が青く光り輝いて、外からもよく見えるっていう話なんですけど………」
「………」

ダイアナの説明に、青年は腕を組んで考え込むような様子を見せた。
クリスが夜の中で会うときとは、随分様子が違って見える。穏やかで物静かだった青年の印象は何処にもなく、どちらかといえば剣呑で近寄りがたい印象が強い。

自分の勤め先で幽霊騒ぎでもあれば、それは愉快ではないだろうなと、クリスが声をかけたことを後悔し始めた矢先、青年は小さな声で言った。

「それ、確かな話なのか?」
「確かかどうかは。あくまで噂ですから」
「でも、信憑性のある噂だと思います」

ダイアナの食いつきっぷちを見て、クリスは墓穴を二つ掘ってしまったことを自覚した。
せっかく騎士たちが、非常に珍しいことに、常識的なことをそれぞれ言ってくれて、この話はなかったことになりそうだったのに。


「じゃ、じゃあ私たちはこれで。お仕事の邪魔をしてすみませんでした」

眠りそうだった子を起こすような真似をするんじゃなかった、と、クリスがダイアナの腕を取ろうとしたとき、
「確かめてみる必要があるな」
男が信じられないことに、そう言って門に手をかけた。


「はい!」
「い、いやいやいや! 駄目だってばダイアナ! 危ないって!」
「危なくありませんよ、大丈夫! 見た目ほど中は朽ちてないって言ったじゃないですか」
「そういう問題じゃなくて、女の子がこんな場所に一人で行くなんて!」
「男がいればいいんだろう? だったら俺がいるんだから、問題ない」
「ええー!?」

殆ど見ず知らずと言ってもいい人間の強引な態度に唖然としたクリスの前で、青年は古びた門を乗り越えて、あっさりと敷地内に侵入してしまった。

「駄目ですって! いくらこの屋敷に勤めてるといっても、勝手に入っちゃ………」
「別に、あんたが来ないのは勝手だ。そっちはどうする?」

青年は、門の向こうでダイアナに向かって言った。

「あんたの方がこの屋敷に詳しそうだからな。ついて来るか?」
「はい!」
「ええええええええええええええ!!?」
「決まりだな」

青年はかんぬきを外して、易々と門を内側から開けた。

「管理する側も、もう少しちゃんと戸締りしておいて欲しい………!」
「さ、クリスさんも行きましょう!」
「行くぞ」

興奮しきったダイアナに、得体の知れない青年。
今すぐ、誰か騎士でも呼んでこの場からダイアナを引きずり出したいクリスだったが、そうなれば呼んでくる間に、ダイアナとあの青年が二人っきりになってしまう。ただでさえやる気満々の二人をこの場に残してしまっては、何が起こるかわからない。

「すぐ帰るからね! 幽霊がいないのを確かめたらすぐに! 暗くなる前に!」


やはりクリスに選択肢はなかった。


庭を抜けて玄関までたどり着こうとする二人の後を、クリスは嫌な汗をかきながら、必死で追いかけた。






庭が広く取られており、肝心の屋敷そのものはそれほど大きくはない。
生垣は人の背丈より少し大きい高さのものが並んでいるが、屋敷そのものを取り囲むように、ぐるりと庭の内側に、背の高い針葉樹が植えられている。
日の光は緑の葉に遮られて涼しさを作り上げているが、その分屋敷からの視界は限定されたものになっていた。
背の高い樹木に監視されているかのように、屋敷は緑にうもれて崩れかけている。
周りの青さだけが生き生きとして、人の気配はそれに押しつぶされてしまいそうだった。

「………変わったお屋敷」

何かを閉じ込めるために作られたような屋敷の庭を、青年とダイアナは一直線に表玄関へ向かっている。
息を切らせながら追いついたクリスの前で、青年は扉のノブをがちゃがちゃと乱暴にいじっていた。


「さすがに表玄関は鍵がかかってるな」
「そこまで無用心だったら、さすがにどうかと思いますよ」

近くで見れば見るほど、白い屋敷は文字通り廃屋だった。
扉だけは立派なものの、漆喰ははがれ、詰まれた石壁も崩れている。窓もあちこち割れているし、窓枠も風雨にさらされて朽ちているものも多かった。

「なんか、見た目からして普通に危ないですね」
「廃屋なんてものは、持ち主がいなければ、他の奴等が勝手に住み着いていてもおかしくないからな」

青年はそう言いながら、屋敷に沿ってすたすたと歩き去ってしまう。
クリスとダイアナが慌ててその後を追うと、青年はがたついた窓枠を押し上げて、内鍵を器用に外している最中だった。

「よし」
「………器用ですね」

窓の鍵など大した作りではなく、土や埃にまみれた窓は、きしみながらゆっくりと内側に開いていく。
青年は開ききる前に、ひょい、と屋敷の中に飛び込んでいってしまった。

「あ、あの、ちょっと」
「鍵は開けたんだから、勝手に入って来い」

乱暴な物言いをする相手の姿は、もう屋敷の闇に包まれてまるで見えない。

「………なんか、感じ悪いなあ………」
「でも、開けてもらったんだからいいじゃないですか。さ、クリスさんも入りましょう」
「そりゃそうかもしれないけど………」

夜出会う人物と、本当に同じなのか疑いたくなるほど、真昼の青年の態度は乱暴だった。顔が全く同じ双子というほうが、まだ納得できる。
できればここで引き返したかったが、クリスの背後には目を輝かせて、ダイアナが待機していた。

「………とりあえず私が先に入るから、ダイアナは後からついてきて」
「はい」

スカートをはいたダイアナを置いて、ズボン姿のクリスは窓のさんに足をかけて、勢いよく屋敷の中に首を突っ込んだ。別にやる気があって勢いをつけたわけではない。つけないと、自分の体を持ち上げる自信がなかったからで、結局万年運動不足のクリスの体は、自分の勢いを殺すことも出来ずに、前のめりに床に崩れ落ちる。

「あいだだだだ」
「だ、大丈夫ですか?」
「………大丈夫………」

床に押し付けられたあごをさすりながら、なんとか体を起こす。
はいつくばった視線の先には、思ったよりも整頓された台所の風景が広がっていた。
埃まみれで、くもの巣があちこちにはられ、少し体を動かしただけで、細かい砂があちこちにへばりつく。
思ったよりも室内が明るく見えたのは、割れた窓や、ひび割れた壁の隙間から差し込む日の光の強さのおかげなのだろう。

「さ、ダイアナつかまって」
「はい」

腕を掴んで、ダイアナを引っ張り上げる。
ダイアナは、室内の暗がりに臆することはなく、軽い足取りで床に足をつけた。

「台所だね」
「そうですね」
「さすがに広いお屋敷の台所だけあって、設備も整ってるなあ。お皿とか鍋とかもそのままで、勿体無い」

クリスが食器棚の引き出しを開けてみると、ナプキンや調味料まで、しっかりとそろったまま放置されていた。
マッチ箱を振ると、からからと音を立てる。
干された木の実から、瓶詰めにされた果実まで、何一つ持ち出された様子もないまま、台所はとっくの昔に機能を停止していた。


「きっと、引き取り手が誰もいなかったんですよ。急いで閉鎖したんでしょう」


悲しそうな声で、ダイアナが言った。
その視線の先には、干からびたパンとナイフが転がっている。


「さ、行きましょうクリスさん」
「う、うん」

ダイアナは、開かれたままの扉から出て行ってしまう。
慌ててクリスが後を追うと、そこはエントランスになっており、吊り下げられたシャンデリアは、見事に埃をかぶって真っ白に染まっていた。
家具に布をかけた様子もなく、家財道具は一切捨て置かれて、薄気味の悪い印象しか漂っていない。

「………幽霊がいるか、いないかはともかくとして、なんだか、夜逃げした後みたいで、あまり長居したい場所じゃないね」
「そうですね。でも、幽霊はいるんです」

ダイアナはきっぱりと言う。ぐるりと室内を見回すその小さな背中は、まるでクリスの知らない別人のようだった。

「幽霊も、もうちょっと明るい場所にいられたらいいのにね」
「え?」
「だから、もう少し楽しい場所とか、自分で選べればよかったのにって思って。どうしても幽霊って暗い場所にいることが多いから。そういう決まりなら仕方がないけど、墓場とか廃屋とかそういうのじゃなくて、勝手気ままに自由に出歩ければ、幽霊だって少しは生活楽しめるんじゃないかなあ、と思って」
「………幽霊は、出歩けませんよ。そこにいなきゃいけないから、幽霊なんです」
「ダイアナ?」
「何処にも行けないから、幽霊なんです。幽霊じゃなくたって何処にも行けないのに。行けない人はどうすればいいんですか? 幽霊になってもならなくても同じなら」


ダイアナの赤毛が、蜃気楼のように揺れた気がした。
緑色の瞳が濡れて、ぼんやりと何かが噴出してくる。
足元が異常に冷たいのは、何処から流れてきたものなのだろうか。

わずかな距離を隔てて立ちすくむ二人。
それを結果的に打ち破ったのは、先に侵入して姿を消していた青年の声だった。




「目ぼしいものは何もないな。立派な外装してるわりには、中身は大したものはない」

頭についたくもの巣を払いながら、青年は床に転がるつぼを蹴飛ばして、奥からやってきた。
この場に慣れた物言いに、何故かクリスはむっとして言い返す。

「大したものはないって………。これだけ立派なシャンデリアとか、台所の食器だって高そうでしたよ」
「庶民から見ればそうだろうが、貴族の屋敷にしてはお粗末なもんだ」

そう言って、青年はクリスに向かって手を振った。

「は?」
「それ、マッチ」

いつの間にか持ってきていたマッチをよこせと言っているのだと気づいたクリスは、その態度にむっとしながらも、無言で放り投げる。
受け取った青年は、慣れた手つきでマッチをすると、持っていたタバコに火をつけた。

「どこかの貧乏貴族が見栄はって作って、このざまってところだな」
「そんな事情も分からないのに、勝手なこと言って………」

値踏みするような物言いは、聞いていて気分がいいものではなった。
灰を床に落としながら、無遠慮に煙を吐き出す青年に抱く感情が、段々と負の方向に傾くのを感じたクリスは、ダイアナを背にかばって青年との間に割り込む。

「じゃ、帰りましょう。幽霊もいないし、中も興味を引くものがないんだったら、ここにいても仕方がないでしょう」
「そうもいかない。手ぶらで帰るのもなんだしな。おい、怪しい光が見えたのって何処だ?」
「ちょ、ダイアナに乱暴な口きかないでくださいよ」
「………それなら、二階の角部屋ですけど………。あの、タバコやめてもらえませんか?」
「ダイアナも! もう帰ろうよ、もうすぐ日も落ちるし………」
「角部屋だな。よし」
「案内します」
「ダイアナ!?」

先導するように、ダイアナは二階へ続く階段を上っていってしまう。強度が弱くなった部分を器用に避けて、足音も感じさせずに姿は夕暮れの光の中消えていく。

「よし」
「ダイアナ! 戻らないと駄目だよ!」

青年はダイアナの後を追いかけて走り出す。走らねばならないほど、ダイアナの姿は既に遠くにあった。

「ダイアナ!」

クリスも必死で後を追ったが、男の足に追いつけるわけもなく、ダイアナの姿すらもう何処にも見えない。
階段を上りきり、廊下を走り抜けて、床に残された男の足跡を頼りに、一つの部屋に飛び込む。


そこは、小さな部屋だった。

角部屋なのに、窓は一つしかない。部屋においてあるものも、ベッドと小さな水差しがおかれたテーブル一つだけ。衣装棚もなければ、鏡台もない。一つきりの窓からは、屋敷の庭と前の道路がよく見えた。ほんのわずかしか距離はないのに、まるで遠い世界の出来事のように、未知を行き交う人々はこちらに目もくれない。人々は家路を急ぎ、夕日はその背中を照らして輝いている。その光は、二階の一室には届くことなく、この屋敷の何処よりも暗い部屋で、ダイアナは窓から外を見ていた。


その足元には、色とりどりの宝飾品が転がっていた。赤に、黄色に、緑。
ひっくり返された宝石箱の前で、男は興奮して何事か叫んでいる。


「こりゃすげえ! 眉唾物かと思ってたら、こんなお宝があるとはな!」
「………………」

クリスでなくとも、その場の危険に気づいただろう。
この男は、普通じゃない。明らかに、違う世界に生きている人間だ。


「たちの悪い人間がうろついている」


アレンが言ったことを思い出す。あの時は、まだこの青年が感じのいい人だと思っていた。

「夜出歩かないように」

そう言ってくれたのは、善意からだと信じて疑わなかったのに。




「………ダイアナ………」

男に聞こえないように、ダイアナに向かって手を伸ばす。
窓辺にたたずむダイアナは、この部屋の中で一番静かに、事の成り行きを見もせず、窓の外ばかり眺めている。

「ダイア………」


「悪いな。あんた運がなかった」


突きつけられたのは、口径の小さな銃。
突きつけていたのは、感じのいい青年の仮面をかぶっていた、いやらしい笑い方をする男だった。
穏やかな声は何処にもない。夜の景色が透けて見えるようだった柔らかな髪は、廃屋の埃にまみれて、汚く見えた。

「………」
「初めはどうこうする気もなかったんだがな。幽霊なんて噂、初めて聞いたし。まあ、遊び半分で付き合ったら、大当たりってところか」

クリスの眉間に突きつけられた銃は、まるでもて遊ぶかのように、ふらふらと落ち着きなく動く。

「まあ、ねぐらの下見なんて面倒なだけかと思ってたんだが、こんな役得があるとはな。これなら、後から来る連中を待つこともねえ。お宝だけいただいて、俺はおさらばするさ」
「………………どうぞ、そうしてください。別に止めませんから」

銃を突きつけられた状態で、物事を考えるのは至難の業だった。
頭の芯は冷え切っているのに、体は思うように動かない。どうすればいいのか必死で考えようとするも、何も浮かばない。
ダイアナ。とにかくダイアナを助けなければ。方法すらわからないのに、そればかりが頭の中を回って、他の言葉が浮かばない。


「………地下倉庫」


むせ返りそうなタバコの煙と、埃の中で、ずっと黙っていたダイアナは、視線を向けずに静かな声で言う。

「何?」
「地下の倉庫に、金貨が隠してある」
「そりゃ、ありがたいな」

男はタバコを加えたままで、口笛を吹く。それは煙と一緒に吐き出され、ダイアナの顔にかかった。

「タバコ、消して」
「ああ?」
「煙たいの。タバコは嫌い。消して」
「なんだ、お前。お前から死にたいのか?」


「消して!」




ばつん、と何かがはじけた音がした。
男が加えていたタバコは根元から引きちぎられ、火の粉が男の顔に降り注ぐ。


「うわあ!?」
「ダイアナ!」

クリスに向けられていた銃口が、ぐるりとダイアナに狙いを変える。

「この!」

クリスはとっさに腕に飛びつき、思い切り噛み付くと、男は悲鳴を上げて銃を取り落とした。
床に転がる銃を拾い上げ、顔を抑える男に向かってクリスは銃を構えた。

「出て行って! 今すぐに!」

手の中の道具が、人を殺せるなんて信じられない。
小さな灰色の銃は、想像していたよりもずっと重くて、冷たくて、嫌な匂いがした。
クリスが突きつけた銃に、男は顔を引きつらせて後ずさる。

「出て行け!」
「わ、わかったよ! わかったから、その銃をおろしてくれ」
「!」
「ひ、ひい!」

男は転びかけながら、ドアから出て行った。
男の通った後には、ポケットから零れ落ちた宝石が音を立てて転がっていた。
窓から入る明かりの色がオレンジ色よりももっと濃い色に変わり、宝石はその色に照らされて、本来の輝きは失われていく。

男が階段を下っていく音が聞こえなくなると、部屋の中は、クリスの荒い息遣いだけが響いた。

もう一人人間がいるとは信じられないくらい、沈黙が支配する。

きしむ床を踏みしめ、クリスは銃を構えたまま、体の向きを変えた。


扉から窓へ。
その先には、一筋の明かりだけ顔に映した少女が立っていた。


窓からは何も見えない。
屋敷を取り囲んだ背の高い針葉樹が、二階の窓まで覆いつくし、わずかに見える隙間からは、人一人分の景色しか見えなかった。




「毎日覗いていても変わり映えのしない風景」
「………………………」
「それには、もう飽きたの」
「………貴方は………」

銃口の先の少女は、くるりと向きを変える。
それは優雅な動きだった。

「貴方は、ダイアナじゃない。ダイアナはどこ? 答えなさい!」

引き金にかけられたクリスの指に力がこもる。
赤毛に、緑の瞳を持った少女は、目を大きく見開いて可愛らしく首をかしげた。

「何を言っているの、クリスさん。さ、その銃を下ろして」
「貴方、ダイアナのことを何も知らないでしょう」
「………なんですって?」
「ダイアナはね、今は豪華なお屋敷に住んでいても、昔は違ったの。だから、『使用人頭』なんて言葉は絶対に使わない。そんな物言いは絶対にしない」
「………………………」
「まだまだある。どうして、この屋敷を外から見たことしかなかったのなら、『見た目ほど壊れていない』なんてわかったの? それに、貴方はずっと、この『屋敷』のことを、『別宅』と言っていた。私も、あの男もこの屋敷の持ち主が誰かなんて、どんな目的で建てられたのかなんて、何も知らなかったのに、どうして貴方はこの屋敷を『別宅』って呼び続けたの?」
「………………………」

ダイアナの顔をした何かは、如何にも不愉快そうに、うんざりした目線でクリスをにらむ。

「どうでもいいじゃない、そんなこと」


「それにね、ダイアナは―エリックさんのことを、『お兄様』なんて、絶対に呼ばないのよ」




白皙の顔の色が、どんどん褪せて青ざめていく。

「ダイアナの身に何かあったら困るから、ここまでは黙ってついてきたけど、もう駄目。貴方、どこもかしこも、毛ほどもダイアナに似ていない。笑えるくらい、何一つ似ていない。貴方が誰か、私は興味もない。だけど―」

クリスは、目の前の少女を睨む眼光に力をこめた。


「ダイアナは、返してもらう。今すぐ、ダイアナの居場所を教えなさい」


両手でしっかりと銃身を支え、震えることがないように、クリスは息を止めた。
そんな様子を、ダイアナの姿をした少女は、楽しくてたまらないといった風に、けたけたと声を出さずに笑った。

「いいの? 私を殺せば死ぬのはこの子だけよ? 私は別に何も困らない。撃ちたければ、撃てばいい。どうせ、私はもう死んでるんだもの」
「………何を………」
「鈍いわね。この期に及んで、幽霊の存在を信じないとか言わないでよ? まあ、昼間から出会ってたから、わからないのも無理ないかもしれないけど」
「金髪で、髪が長い、美少女の幽霊………」
「そう、それが私よ。私なの。私は、ここにいるのよ! ここにね!」

少女は自らの手で、胸を引き絞る。
ダイアナの身に着けている、サマードレスのすそがおどろに揺れ、赤毛が天をつくように舞い上がる。
クリスの目には、緑色の瞳がまるで燃えているように見えた。


「………で?」
「え?」


クリスの心は平静だった。
銃を突きつけられたときもそうだった。
どうやら自分は、感情が振り切れてしまうと、物凄く憤るか、物凄く冷静になるかの、極端な二択しかないらしい。


「だから? 貴方がそこにいようが、いまいが、関係ない。ダイアナは絶対に返してもらう。貴方、結局どうしたいの? このままずっと、この廃屋で私と一緒にいたいの? そんなつまらないことをするために、わざわざダイアナにとりついたのなら、暇人もいいとこね」
「………! 私は………!」
「私? 何が私よ。言いたいことがあるなら、自分の口で言いなさい! 一体何がしたいのか。ダイアナをわざわざ選んで、私のところにやってきた理由は! この屋敷に連れてこさせて、何がしたかったのか!」
「私、私、何よ! あんたなんか………!」
「さっさと言いなさい! 私は忙しいの! 明日だって仕事があるんだから、早く帰って寝たいの! ダイアナだってそうよ! 誰も彼も貴方の酔狂に付き合うほど、暇じゃないの!」


クリスは、握っていた銃を力いっぱい投げ捨てた。

鋼の塊は宙を飛び、窓ガラスを派手に割って、外へ落下していく。
小さな破片が室内に飛び散り、きらきらと輝いた。




その欠片は、いつの間にか夜になっていた空に輝く、大きな満月を映して、宝石よりも、太陽よりも、明るく輝いた。




「嫌ああああああああああ!」
「ダイアナ!?」

月の光を浴びたダイアナの体から、溶けて流れるように、叫ぶ女の姿が浮かび上がった。 髪の色も、瞳の色も、着ている寝間着の色もわからない。
両手で隠された顔の奥にあるはずの、まつげの長さも見えなかった。

「ダイアナ!」

支えを失ったかのように、ゆっくりと倒れてくるダイアナの手首を掴み、クリスは懇親の力をこめて自分に引き寄せた。
暖かい体にほっとしながら、人一人分の重みを支えきれず、クリスはそのまま勢いよく床に倒れこむ。

「うごっ! な、なんか前にもこんなことあったような気がするなあ………」

ダイアナは気を失っているものの、命に別状はないらしく、傷一つない。
顔の色も、真っ白ではなく健康的な色をしていた。

「よ、良かった………。これで何かあったら、私、エリックさんに合わせる顔がない………」

ありがたくない想像に背筋を寒くさせながら、クリスは、ダイアナを抱えたまま、分離した影と対面した。

「美少女の幽霊って言われも………」
「何よ! 何よ! 何よ! 夜の空気は駄目だって! 月の光は体に悪いって! 太陽の光だって短い時間だけって! 何もかも、何もかも駄目ならどうすればいいのよ!」
「………見る影もないなあ………」

ヒステリックに叫ぶ女は、八つ当たりするように辺りの物を所構わず蹴飛ばし、投げつけようとしていた。
だが、透けた手は何も握ることが出来ず、形のない足では何も弾き飛ばすことが出来ない。

女の表情だけが、すべての感情を集めたかのように、はっきりと醜く歪む。


「誰もいないなら、誰か連れてくるしかないじゃない! 誰か、誰でも良かったのよ! 誰だって!」
「何もダイアナを選ばなくたっていいでしょうが! いや、他の人だって選ばれれば迷惑だけど!」

まるで子供の駄々に、クリスは呆れて怒鳴り返す。

その言葉を聞いた女は、クリスの何倍もの大声で、
「だからあんたを選んだんじゃないのよ!」
そう叫び、地団太を踏んだ。






狭い視界に広がる道。
決まった時間、決まった服装をして、他のものには目もくれずに歩く人間。
いつも怒っているような、つまらなさそうな、据わった目をして。
突風に運ばれた帽子を取るために、生垣の隙間をぬうようにして、ひっそりと入り込んできた華奢な少女。
風のいたずらが、少女の帽子を屋敷の中に導いたとき、その少女とあのつまらない人間が知り合いだと知ったとき、自分のやるべきことは一つだと思ったのに。
女のついでに、この少女も、知り合いの奴らも、全部巻き込んでしまえばいいとすら思ったのに。




「………はあ?」
「あんたなら、いいと思ったのに! 毎日毎日、同じ格好して、同じ時間に家を出て、帰って、同じような生活ばかり繰り返して、つまらない毎日ばかりのあんたなら、私と一緒だと思ったのにいいい!」
「………………………はあ」

酷い言われ様だった。

会ったこともなかった幽霊に、窓から眺めてたまたま視界に入っただけだっただろうに、つまらない人生を送っていると断じられたクリスは、呆気に取られて返す言葉もなかった。

「私と一緒なら、人生がつまらない奴なら、今死んだって構わないでしょう!? 誰も困らないでしょう!?」
「………そりゃまあ、しがない図書館職員ですから、困るのも次の人員が決まるまでくらいでしょうけど………。それにしたって………」
「それなのに! 何で嫌がるのよ! 私と一緒に死んでくれたっていいじゃないのよ!」
「いや、よくはないでしょう。というか………」

クリスは、ダイアナを何とか抱え上げると、ふらつく足取りで立ち上がった。
目の前の幽霊は、する必要もないだろうに、口をぱくぱくと開けて酸素を求めているようだった。


「ダイアナを巻き込んだ今となっては、貴方と一緒には行けません。それに、私は他人から見てつまらない人生だとしても、自分の変化のない生活を気に入っているので、貴方と同じじゃありませんね。というか、貴方と同じだったら尚更、誰も貴方と一緒には行かないでしょう」


同じ結末が待っていると、初めからわかっているのに、誰も付き合うはずがない。


「せめて―初めから、直接私のところへ来れば、まだ考えようもあったんでしょうけど」

女は、逆立った髪のまま、呆然とクリスの言葉を聞いていた。
クリスは、そんな女を見返すと、ダイアナを引きずりながら扉へ向かおうとした。
もう、何も言うべきこともなければ、相手をどうこうする気もない。

ダイアナも、自分も、誰も一緒には行かないのだから。




「………な!」

爆ぜる音と、煙が同時に立ち上ってきた。
真っ黒な煙が、床と扉の間からすべるように入り込んでくる。

「火事!?」

クリスが扉を蹴破ると、廊下は既に目も開けられないくらいの煙と、熱に覆われていた。






「くそ、えらい目にあったぜ………!」

男は、空になったマッチ箱を投げ捨て、夜が迫った裏道を早足で歩いていた。
何も連絡しなければ、もうじき後続がやって来てしまう。
首都で一仕事しようと、ねぐらを選んでいた矢先に、あんな厄介に巻き込まれるとは思ってもみなかった。

ポケットにねじ込んだはずの宝石は、もう一つ、二つしか残っていない。
あのどさくさにまぎれて落としてきてしまったらしい。これでは、一人だけ逃げるわけにもいかなかった。

「くそ、あの女ども………! 面倒かけさせやがって………!」

顔にまだらに残る火傷も、ひりひりと痛む。おまけに銃まで取り上げられて、潜伏先も見つかっていないとなれば、後から来た連中に、何を言われるかわかったものではなかった。

「くそ、まあいい。口封じはしたしな」

そう言って男は、にやりと笑って振り返る。
その背後からは、夜を迎える空に、黒い煙が立ち上っていた。

「はは。全部燃えちまえばいい。建物が燃えちまえば、俺も強く責められやしないだろう。ねぐらは見つけたことは見つけてたんだからな」


「それは苦しい言い訳のような気がするけどね」


「!?」

突然投げかけられた声に、男は反射的に襲い掛かる。
振り上げられた拳は空を切り、勢いのついた体の前に、紫色のマントがひるがえった。

「な!」

視界を完全に奪われた男は、腹部に強烈な一撃を受け、跳ね飛ばされた。背中から路地の壁に叩きつけられ、骨の折れる音が間近に響く。

「うげえっ」
「私が君の立場なら、すぐに逃げることをお勧めするけれど、それも無理な算段というものだ。こうして見つけられてしまったからには」
「て、てめえ………! 何者………」
「私? 私は君とご同業のようなものだよ。ただし―」


霞む視界の向こうで、深い海のように響く声が、ゆっくりと近づいてくる。


「だからと言って、君に優しくする気はさらさらないけどね」






「うげっ、ごほっ、うごおおお重いー」
猛烈に咳き込みながら、クリスはダイアナを引きずって煙の中を必死で進んでいた。
階段まで大した距離があったわけではないのに、世界を一周したかと思うくらい、遠く感じる。
火事の煙は上にいくから、なんとしても下に行かねばならないとは思うが、ダイアナを抱えて逃げるのは至難の業だった。
建物は、風雨にさらされて乾ききっている。火が回ればあっという間に全焼するのは目に見えて明らかだ。

「こ、これはまずい。もう、いざとなったら、二階からダイアナを連れて飛び降りるしかないか………! 私が下敷きになれば、ダイアナは骨折くらいですむかも………!」

想像したくないことばかり立て続けに置き、最後も想像したくない結末を迎えるのかと、クリスは自分に腹を立てながら、何とか進んでいた。

煙で喉は痛いし、目からは涙があふれて涙が止まらない。痛くて薄目で道を探るのが精一杯だった。


「………駄目だ! やっぱり飛び降りるしか!」

「クリス!」

クリスが、手近な部屋に飛び込もうとした瞬間、煙の中から猛然と人影が現れた。びしょびしょに濡れたマントに身を包んだ男は、クリスのそばに走りよってくる。


「クラウドさん!?」
「クリス! 無事か!」
「クラウドさん! ダイアナをお願いします!」

どうしてここにいるのかを尋ねている余裕はなかった。
クリスが気絶したダイアナを手渡すと、まるで軽い羽を抱いているかのように、クラウドはその体を横抱きにして抱え上げる。

「走れるか、クリス!」
「な、何とか!」
「私の後ろからついてきなさい! 絶対に離れずに!」
「わかりました!」

クラウドの濡れた足跡も、一瞬で消えてしまう。クリスはクラウドの背を追って、懸命に走った。




「………家が………」


「!?」


降りようとした階段が、崩れ落ちていく。
燃え尽きたのではなく、元々崩壊寸前だったのだろう。火の粉よりも、階段にはられた真っ赤なビロードが、クリスの視界を遮った。
小さな声に気づいて振り返らなければ、クリスはそのまま落下していただろう。


その声の持ち主は、クリスではなく、燃えて炭になろうとしている自分の家の中で、呆然と立ち尽くしていた。


「早く! 逃げないと!」
「クリスー!」

クラウドの声が、階段の下から放たれた。
燃え盛る炎に包まれた廊下で、まったくきかない視界の中で、クリスは始めてその幽霊が、自分よりも遥かに幼い少女であることを知った。

「………わたしの家が………」
「早く………一緒に!」
「クリス! クリス!」

クラウドの悲鳴が遠くに聞こえる。
早く外に出てもらわないと、ダイアナも、クラウドも一緒に焼け死んでしまう。


この子も。


クリスは手を伸ばした。だがその手は、透けた少女の体を通り抜けてしまう。

少女は、泣いていた。
クリスを前にして、声を出して泣いていた。


悲しそうなその顔は次第に見えなくなり、そして、クリスが伸ばした手の先にはかつては美しかった屋敷が燃えるばかりだった。






「なんだ、あの炎は」
「火事だろう? おい、それよりあいつはどうした」
「ここで落ち合うはずになってんだが、姿が見えねえな」

数人の男が、首都ゼクスの中央部である、噴水に陣取ってたむろしていた。
既に満月が真上に輝く時刻。男たちの集団は誰に気取られることもなく、人々は町外れで立ち上る煙を見て、あれやこれやと騒いでいる。

「大体、あいつに任せて大丈夫だったのかね?」
「仕方ないだろう。何せ急だったからな。あいつしか動ける奴がいなかった」
「ったく、これもフィーアでへまやったからだろうが。大公が変わったからって、調子にのってこのざまだ」
「仕方ねえだろう。これからは、こっちでよろしくやるさ。新しい大公が前ほど有能であるはずがないからな」


「それはどうかな」


「!?」

音もなく現れた巨大な黒い影は、おかしなことに口をきいた。
真っ黒い髪に、太い眉。真っ黒な騎士服は夜の中に溶け込んで見えないが、その腰にさされた銀色の剣は何よりも光って見えた。


「な………!」
「遅い」

逃げようとした男の一人が、もんどりうって倒れる。
足を引っ掛けた相手は、夜の闇に一つもかげることのない見事な金髪をし、黒い服の男と同じように、銀色の剣を腰に下げている。


「騎士か!?」
「供述通りだな。よくもゼクスの門をすり抜けてきたものだ」
「いくら小者とはいっても、手引きした奴のほうが問題だな。これから忙しくなりそうだ」
「そうだな。いい機会だ。門番をふるいにかける必要があるだろう。役目が役目だけに、色に染まりやすい」
「どこも腐敗してるってのは、同じだな。ったく、クラウドも僕たちに面倒ごとばかり押し付けて」
「おおっぴらに動くのが俺たちの役目だ。ゼクスの治安維持のためには、パフォーマンスも必要なことだ」
「だったら、エリック自身が下々の前で姿を見せて捕まえりゃいいんだ」

男たちを他所に、騎士二人は勝手に話し合っている。

したたかに地面に鼻を打ちつけてうめいている男を他所に、残された二人の男は、忙しなく周囲に視線を動かした。
何処かに逃げ道はないかと、必死で動かした視界の先に、少し離れた場所で馬にくくりつけられて、無残な姿をさらしている仲間を見つけたとき、二人の男は、自分たちの行く末を知った。



「さて、不法侵入者を捕まえるか」
「それだけで済むとは思えないけどな、罪状」

満月を背景に、騎士アレンと、騎士ベルナドットは、水のように流れる動作で、すらり、と銀色の剣を抜き放つと、悲壮な顔をしている男たちに切っ先を突きつけた。









規則的な動きの中で、クリスは目を覚ました。

あまりに煙たいので、鼻をこすると、どうやら煙たいのは自分自身のようだった。
指も、手も、服も、何もかもいぶされて煙たい。目はしくしくと痛むし、喉は乾燥しきっていがらっぽい。髪の毛がばさばさなのは今に始まったことではないが、あちこち焼け焦げて、くるくるとぜんまいのように丸まった様子は、みっともない以外何物でもない。

「………派手に燃えてたからなあ………」

どうして突然火の手が上がったのかはわからないが、あの燃え方では、屋敷は跡形も残らないだろう。
すべては燃え、下手をすれば庭の木々も燃えて、残るのは真っ黒な残骸だけ。
台所の食器も、エントランスのシャンデリアも、床に転がっていた宝石も、全部燃えてしまうのだろう。


そう、あの子。

あの幽霊の女の子は、どうなったのだろうか。
燃えてしまったのか、それとも、無事に逃げられたのだろうか。


「あ、でも、幽霊なんだから………大丈夫なのかな………」
「気がつきましたか?」
「!」


クリスは、そこでやっと、自分が誰かに背負われていることに気づいた。

規則的な揺れは、広い背中に乗せて運ばれているせいで、背負ってくれているのはどうやら男らしい。


「す、すみません! 今降りますから!」
「いいですよ、そのままで。貴方はあの屋敷から焼け出されたばかりなんです。無理をしてはいけません」
「あ、ありがとうございます………」
「助かって、本当に良かった」


優しい声だった。
穏やかな声。
つい昨日聞いたばかりの声は、もう失って、二度と聞けないのかと思っていた。


「………貴方は………」

背中の上のクリスには、自分を担いでいる男の顔は全く見えない。
髪の毛は、満月の光に照らされて揺れている。その髪の色にも、背中にも、支えてくれている腕にも、まるで見覚えがない。


「ありがとう、妹を救ってくれて。貴方は、とても勇敢で優しい女性ですね」


けれど、その声には覚えがあった。
残業して、日が落ちてから帰宅すると出会う、不思議な人。
今はもう燃えてしまった屋敷の前で、いつも生垣の手入れをするかのように、外側から庭の中を見ていた。
決して、その場所以外では会うことがなかった人。
タバコの匂いも、下卑た口調もない。
外見はまるで違っても、それでも、この人は確かに、名前も知らぬあの人だった。


「妹の力が強すぎて、私は別宅の中には入れなかった。あの子の苦しみを知っていても助けられなかった。けれど、貴方が救ってくれました。感謝してもしきれません。本当にありがとう」
「い、いえ、私は別に」
「あの赤毛の女性も、亜麻色の髪の男性も、お二人とも無事に外に出られました。安心してください」
「本当ですか! よ、良かった………!」
「貴方の大切な人を利用して、貴方を傷つけて、本当に申し訳なく思っています。私は、何も出来なかった」
「いえ、あの、ですから、別に気にしてません。貴方が悪いわけではないのだし、それに、その妹………さんにも、何も」
「そんなことはありませんよ。貴方がこうしてここにいるのは、妹がそう望んだからです。助けてくれと、私に力をくれました」
「え?」
「あの子のおかげで、私はこうしてあの屋敷から貴方を助け出すことができました。あの屋敷は燃えて、あの子ももういません。全部、貴方のおかげです」
「………もう、いないんですか」
「ええ。あの子は………もういません。私は………遅かったのです。結局、あの子の元へたどり着くことは最後までできませんでした。そして、あの子は一人で捨て置かれて、あの姿になった」
「………あの、妹さんは………何処に行ったんですか?」
「え?」


クリスの言葉に、青年はわずかに振り返る。
形のいい耳と、きれいに通った鼻筋が見えた。


「何処に行ったのかわかれば、その、お礼を言わないとと思って………。私を助けてくれたのなら、ちゃんとお礼を言わないと………。せめて、もしお墓があればお参りに………」
「………貴方は、あの子が憎くないのですか?」
「憎くはないです。その、ただ、腹立たしいだけで。お兄さんの前で言うのもなんですが、子供のわがままに振り回されて、ダイアナまで巻き込まれて、散々でした。しつけもなってないし、性格歪んでると思われても仕方がないんじゃないかと思います。事情はまるでわかりませんけど、自分がああなったからって、人に迷惑をかけていいって言う理由にはならないでしょう」
「………それは………。全く申し訳ないと………」
「でも、それはそれです。腹立たしさは消えませんし、許せませんけど、それでも、なんていうか………根性のある子でした。迷惑をかけないようにって、私を一緒に連れて行こうと選んだのなら、ちゃんと言ってくれればよかったのにって思います」
「………」
「勿論、一緒に行けませんけど。でも、言ってくれれば、私が妹さんがこの世にいるんだってわかれば、もっと、別なことができたような気がするんです。今更言っても仕方がないことですが。でもそう考えると、あれですね。妹さん、勿体無いことしましたね。あの根性、もっと別な方向に向けられれば良かったのに。その手助けだってできたのに」





青年は返事をしなかった。
しばらくクリスを担いで歩き続け、町の中央にたどり着こうかと言う場所で、クリスを地面に下ろす。


「噴水の所に、貴方の友人がいらっしゃいます。どうぞ、行ってください」
「あ、ありがとうございます。あの、貴方は………?」


どうするのですか、とクリスが問う前に、青年はゆっくりを口を開く。

青年は、金色の髪に青い瞳をして、細い眉毛と細い目をして、声と同じように優しい相貌をしていた。


「私は、ここでお別れです。さあ、行ってください」
「は、はい」


青年の有無を言わせぬ口調に、クリスは慌てて駆け出した。

といっても、元々走るのは遅い上に、ずっと背負われていたせいで、体の節々が痛い。あちこち焦げてきしむ体を抱えて、クリスは、青年のことが気になり、振り返ろうとした。




「………おい、お前クリスか!? 何でこんな所に………」
「ベルナドットさん!?」
「クリス!?」
「アレンさん! お二人とも、どうしてここに?」




見知った二人に出迎えられ、クリスは結局振り返ることはなかった。

変わり果てたクリスの格好を見て、アレンたちは仰天して走ってきた。その向こうには、数人の男たちが捕縛されて地面に転がっている。その中の一人は、見知った顔だった。









クリスが、今回の騒動の背景について知ったのは、燃え尽きた屋敷の片づけが始まる頃だった。

クラウドの私室に呼び出されたクリスは、火傷の痕もほったらかしにしたまま、他の騎士とも対面した。

「傷は?」
「大丈夫です。少しひりひりするだけで、なんともありませんから」
「包帯くらい巻いておいたほうがいいんじゃないのか?」
「あれ、面倒ですし動きづらいんですよ。本当に大丈夫ですから」
「そう? 君はいつも無茶をするから心配だよ」
「いえ、あの、その、近づいてこないでください、クラウドさん………。早く事情を説明していただけるとありがたいんですけど………。せっかく定時にあがれたんで………」

図書館の制服を身に着けたクリスが、じりじりと後ずさりする様子を見て、クラウドはため息をつきながら、事情を説明し始めた。

「今回私が受けた任務はね、フィーアの取締りによって、首都ゼクスに流れ込んでくる連中の捕縛だったんだよ。仮にも大公が、首都を撒き餌にして悪党を捕まえようとしているなんて、大々的にいえる事じゃないから、私が動く羽目になったというわけだ。先日、エリックがフィーアの取り締まりを厳しくしてね。あの人はどうやら、父親と同じ管理の仕方をする気はないようだ」


フィーアを野放しにしておくつもりがない理由を知る人間たちは、クラウドの言葉に無言で返した。


「で、どうやら先に首都に入り込んだ奴がいるって情報を掴んでね。あの男を見つけて仲間の特徴や、予定を教えてもらったってわけ」
「何が教えてもらった、だ。思いっきり拷問したんだろ。あいつ、鼻も肋骨も折れてたんだぞ」
「ちょ、怖いこと言わないでくださいよ! クラウドさんも、あんまりやりすぎちゃ駄目ですよ!」
「今となっては、もっとやっておくべきだったと思うね。君を危険にさらすような真似をした奴なんだから」
「だからー!」
「同感だな」
「その点だけは同意」
「アレンさんも、ベルナドットさんも頷かないでくださいよ!」
「冗談ごとではないよ、クリス。君があの屋敷に取り残されたとき、私がどんな気持ちになったのか、君には分からないだろう」
「でも、結果的に助かったわけですから」

「それだ」

「え?」
「クリス。君が助けられたという男の話だが」
「あ、はい。ええと、名前は知らないんですけど、あの屋敷に住んでいた娘さんのお兄様らしいです」
「………それさあ、この前お前に言われてから色々調べたんだけど、間違いないのか?」
「た、多分。そう言ってましたから。何か問題でもあるんですか?」


クリスが首をかしげると、騎士三人は顔を見合わせて黙り込んだ。


「あの、あの人何か悪いことでもしたんですか?」
「いや、そうじゃないんだけどね………」
「クリス、君を助けたその男が、あの屋敷に住んでいた少女の兄であるはずがないんだ」
「え? お兄さんいなかったんですか?」


「違う。いいか、クリス。あの屋敷に住んでた少女は確かにいた。それも病気で亡くなってる。そしてそれと同時期に―その兄も死んでるんだ」


「………え………?」


「あの日、僕の家で新しい庭師を雇うことになったから、っていう話はしたろ? その庭師がかつて勤めてたのが、その兄妹の家なんだよ。庭師に直接聞いたんだから、間違いない。あの兄妹はどちらも亡くなってるんだよ」






元々、あの少女を閉じ込めておくために作られた屋敷ではなかった。
地方貴族が首都に滞在する際に使用していたもので、管理人以外は誰も住む予定のなかった屋敷に、愛人の子供が捨て置かれたのは、ある意味当然の成り行きだった。
少女は病弱で、長くは生きられないだろうと言われていたらしい。
その存在は秘され、誰も会いに来ることもなければ、外に出て行くものもいない。

いつも、木々の間から見える、狭い景色ばかり見て過ごしていた少女。

少女はあの二階の角部屋で過ごし、そしてそこで死んだ。

たった一人以外、その死を気にも留めなかった。


その一人が、兄だった。


少女の存在すら知らなかった兄が、どうやって腹違いの妹の死を知ったのかはわからない。

けれど兄は、一人、あの別宅に兄として妹の死を悼むために地方から出発し、そして、その途中で自分も命を落としたのだという。









「………………………」
「兄の遺体は、随分長いこと見つからなかったらしいけど、先日、崖下に落ちている死体が発見されて、やっと埋葬されたらしい。跡継ぎを失った屋敷で、人減らしのために解雇された男が、うちに紹介されて来た、ってわけだ」

遺体が見つかったのは、クリスがあの青年と出会い始めた頃だった。

「だから、クリス。君が出会ったのは、誰か別の人間ではないかと思う。その兄の名を語ってどうしたいのかはわからないが………」
「………違います」
「………クリス?」

「あの人は、あの人たちは、いたんです。確かにあそこに。私がここでこうして生きているってことが、その証拠です」

クリスは、はらはらと泣いていた。
目の前でしゃくりあげる大切な人を前に、男たちは何も言わずに黙り込む。
この世にないものは信じられなくとも、大切な人が信じているものは信じたかった。




日の光の下では、決して会えない人。
いつも、夜の星の下ばかりで出会ってきた。
名前も知らない。本当の顔も分からない。妹がいることさえも、兄がいることさえも、どちらも知らなかった。

それでも、あの二人はここにいたのだ。

私が生きていることが、その証し。

救いたいという意思を持つ兄に、屋敷から出ることが出来なかった妹が与えた力。
その力が、大粒の涙を流す、男たちの大切な人を救った。









屋敷は燃え尽きた。
高い壁のようにそびえていた木々も、きれいになくなった。
更地になった敷地の周りには、焼け残った生垣だけが揺れている。
満月は欠け、強すぎた光はやわらかいものに変わっている。

青年は、空を見上げ、かつて屋敷があった場所を見下ろした。

あの子が何処に行ったのかはわからない。
けれど、これから自分も知ることになるだろう。
だから、嘆く必要はない。
今まで一度も一緒に過ごせなかったけれど、今度はずっと一緒だ。


そんな日が来るとは今まで思いもしなかったけれど、あの人が私も救ってくれた。




足音が聞こえる。
仕事帰りにゆっくりと、確実に聞こえる耳慣れた足音ではない。
何かを知って、大慌てで転びそうになりながら走ってくる、真っ直ぐな人間の足音。
日の光の下では遂に会うことはできなかった。
夜になってようやく、あの場所に良く訪れていた人間の体を借りて、一言、二言会話を交わしただけ。


けれど、それで充分すぎるくらいだった。


もう二度と、見ることもなければ、会うこともない。
けれどそれが、一番嬉しい。
貴方が私に会えないという事は、貴方がこうして生きているという証なのだから。




「ありがとう、勇敢で優しくて―美しいお嬢さん。………もっと早くに貴方に会いたかった」




いつもの場所には、誰もいなかった。
真夏の日差しが通り過ぎ、もう秋の訪れを感じさせるような夜の冷たい空気だけが、クリスの火傷した頬を撫でて、通り過ぎていった。