『Seven Days War』 創作 アレン ネタバレ注意


実際のところ、俺は驚いたのだ。


「………何?」

「何、と言われても。残りますよ、ゼクスに」


そう目の前で、クリスは俺に言った。
事件解決からしばらくして、大公殿下への報告や、片付けなければならない雑務をこなし、やっと自分の身を顧みる余裕が生まれた頃、俺の執務室からとっくに飛び出し ―いや事実上彼女は俺の部屋に一回しか泊まらなかったのだが―来賓用の施設で寝泊りしていたクリスは、迎えに来た俺にそうはっきりと明言した。


ゼクスに残る。彼女は特別たいしたことではない、とでも言いたげに、声色一つ変えずに言った。
だが、元々彼女の住まいはここではない。馬車で、三、四日かかる場所にあるアインスという街で仕事を持ち、もう十年住んでいるという。
だから俺は、旅の途中で彼女の暮らしぶりを少しだけだが聞き、俺がアインスに出向くと、確か言ったはずなのだが…。

「それは…いや、いいのか?」
「え。何か駄目なんですか?」

逆に聞き返される。
駄目だということなど、断じてない。
それだけははっきりしている。

「いや」
「じゃあ、これからよろしくお願いします。いつまでも来賓扱いされているわけにもいかないから、いい加減身の振り方を考えなきゃいけないなとは、 思っていたんです」

俺と側にいることを選んだ、というよりは、この街で生きていくことを選んだとでも言いたげに、彼女の姿にはためらいや、迷いというものは見受けられなかった。
旅の途中は、それはもう表現できないくらいに、体中から街に帰りたいという怨念が出ていたのだが、それは初めからなかったかのように、消えてなくなってしまっている。

一体どんな心境の変化なのだろう。
俺は、俺が騎士であることをやめないように、クリスはアインスの街での暮らしをやめないものだと、考えていたのだが。

「クリス…」
「はい?」
「無理をしてはいないか?」
そう尋ねると、
「何の無理です?」
これも逆に聞き返される。
相手の気持ちを尋ねるなどという、なれないことをしたせいで、思わず返答に困る。
そんな俺の様子を見て、クリスは、
「無理するような気力も体力もありませんよ。アレンさんも私に気を遣わないでください」
そう言いながら、俺に気を遣って小さく笑った。




クリスは、俺がある任務の最中に出会った女性だ。
出会った、というのは正しくない。正確には俺が巻き込んでしまった女性だ。
公国に、王位継承権に関わる『宣誓』を奪還し、保護するのが俺の役目。それだけなら、クリスもまさか首都ゼクスまで連れてこられることもなかったかもしれない。
だが、公子から俺に下された命令は、それだけにとどまらず、俺の妹の野心を呼び覚まし、俺はそれに逆らうことが出来ずにただ流された。
今にして思えば、俺は、妹に兄として何かをしてやりたかっただけなのかもしれない。
兄にしかできない、肉親にしかできない、身内への叱り方を俺は全く知らず、ただ受け入れるしか出来なかった。
俺は妹の反逆計画に名を連ね、そして、『宣誓』を奪取するために、命令を利用した。
最もその計画は、俺の仲間であるベルナドットや、クラウドに看破され、妹と俺がなそうとした計画は失敗に終わった。


今でも思い出す。
計画に加担した俺の逃げ道を塞いだ公子の言葉。
「お前が負い目を負うとすれば、俺ではなく、お前が巻き込んだ女に負うものだ」
いつも思い出す。
騙されているとは知らず、全身で俺の妹を庇ったクリス。
見ず知らずの人間を何故助ける、という俺の問いに、
「何故と言われましても。…特に深い意味ないんですけど」
と、困ったように答えた。


当たり前のことを、当たり前にできる。
したいと願うばかりの俺と違い、俺が巻き込み、俺が傷つけたクリスは、騙されていると知らないときも、知った後も、変わらずそのままでいた。

俺が感じる、クリスに対する負い目。
どう償うのか、償うべきなのかもよくわからない。
面と向かって、一度尋ねたことがある。


「クリス。君は俺と妹を助けてくれた。俺は君に報いたい。どうすればいい?」


クリスは、眉間にしわをよせ、白目を向き、口を歪ませ、般若のような形相で、地獄の底から搾り出すような声で言った。


「とっとと忘れてください」


二度とその話はするな、と暗に言われたようだったので、俺はそれ以上追及できなかった。
その後、この手の話を持ち出すと、あまりにわかりやすくクリスの機嫌が悪くなるので、今現在にいたっても、何故クリスが怒るのか俺にはよくわからなかった。


来賓用の施設でも、クリスは殆ど寝に帰っているようなもので、あまり用意された部屋にはいないようだった。
周りがとにかく豪華で、本当の公国にとってのお客様ばかりなので、ちっとも気が休まらないのだと言う。
確かに、クリス以外は隣国の大使や、貴族ばかりで、話が合うわけもない。
クリスは朝食を自室で取り、食器を自分で下膳し、その足で馬車も何も使わずに、街にある貸本屋を行き来するのを日課にしていたようだった。

学芸院は許可がなくては入室することができない。
クリスが首都ゼクスに来て、唯一俺に願ったことは、一度だけでいいからその図書館への入館許可をもらえないか、ということだった。

俺は、一もニもなく承知し、その許可を取り付けた。


「すいません…。こういう例外的なわがままは、よくないとは思うんですが…。せっかくなので」
「いや、これくらい大したことではない」
「大したことですよ。きちんと保管されて、守られているからこそ、保てるものもありますし」

自分がその秩序を乱してしまったことを、気に病んでいるふうだったので、俺は、
「………………」
一度ならず、何度でも訪れていいという許可をもらった、ということを、何故か言い出せなかった。


不思議なものだ。
俺はクリスといると、いつもより饒舌になる。
勿論、俺が一言何かを口にすれば、その三倍はクリスがしゃべって返してくるのだが、それでもいつもに比べたら、饒舌だと自分でもわかる。
だがそれと同時に、言えないことも随分増えた。
今まで俺は、自分の発言に対してよどむということがあまりなかった。隠しておかねばならないこと、言わずにすむことは、勿論沈黙するだけの分別はある。 だが、それ以外のことに関して、任務以外で俺は自分から何か率先的に話すこともなければ、黙することもなかった。

気にしたこともなかった。
クリスは、俺とは正反対で、何をするにも前向きだった。いや、前のめりと言うべきか。話すにしろ、黙るにしろ、とにかく常に懸命なのだ。 相手に対してそれが礼儀だと言わんばかりに、必死になって返事をする。その結果、長い長い会話になるか、言葉の続かない沈黙になるかは、それは 彼女が判断した結果であって、決して、投げやりになったわけではない。


俺は、それを意識しないで生きてきた。
だが、今では意識せずにはいられない。
彼女のために話し、彼女のために沈黙する。
自分が口にした結果、口にしなかった結果を想像すると臆病になる。

だから、俺は、クリスが自分の生活してきた街ではなく、この、さらわれたも同然な首都ゼクスで、生活するのだと言ったとき、その本意を尋ねることが どうしてもできなかった。




「クリス」
「はい?」
俺とクリスは、城門に向かって歩いていた。
日が一番高く昇る昼間。それぞれが、それぞれに生活している息吹がある。
首都の喧騒に紛れ、俺は真っ黒な騎士の制服ではなく、上着を脱いだそれとはわからない格好をしていた。
クリスは、さすがに長期滞在になり着替えを購入したらしく、旅の間ずっと着ていた洋服ではなく、別のシャツを着ていた。
俺から見ると、女性の服はどれも同じように見えるのだが、クリスが着ている服も以前と色が違うだけで、特別なものには見えなかった。
「服を買ったのか」
「ああ、これですか。さすがに衣服をずっと借りっぱなしっていうのも気がひけますし。持ち合わせが少しだけあったので、買ったんです」
「そうか」
クリスは、似合うか、似合わないか、という外見に関わることを自分から一切言わない。
これも俺にはよくわからないが、クリスは自分の顔が嫌いらしい。
俺が一度、顔が好きだと言ったら、たっぷり二分間は唖然として口を開けたまま固まったことすらあった。
綺麗か、と問われると正直俺はよくわからない。
女性を綺麗か、綺麗ではないかという外見で判別したことはないし、実際、眉目秀麗な美女を目の当たりにした事もあるが、それは別に俺と関わってくる 事柄ではなかったから、正直、どうでもいいと言っていい。
ただ、俺にとってクリスの顔は、好きな顔だということは断言できた。
好きなものは、何であっても好きだ。それは絶対に変わらない。
クリスにそう言ったこともあったが、
「………そういうことじゃ、ないんですよ」
と、少し困った顔で言われたので、俺も少し困ったままお互いに黙るしかなかった。

「でも、ありがとうございます」
沈黙を破って笑う。
俺に対して向けられる視線。言葉。笑顔。
真横を歩くクリス。
うなじで、一つに結わえられた髪が、クリスの競歩かと取れる速さに揺られて跳ねている。
女性としては平均的な体つきなのだろう。手が飛びぬけて小さいとか、腕が細いとか、そんなこともない。
けれど、その身体も。
声も。
言葉も。
指も。

そのどれもを、疑うことなく好きだと断言できる俺は、クリスにそれをわかってもらえるのだろうか。




クリスは自分から俺には何も言わない。
他の事は、八対二の割合で、クリスが口火を切ることが多かったが、こと、俺との関係になるとクリスは途端に口が重くなる。
嫌いだとか、避けたいというのではなく、ただ、わからないことが多すぎて困るのだという。
それは、俺にはっきり自分からそう言った。

「だから、アレンさんが悪いとか、そういうことじゃないので、気にしないでください」

気にしないでくれと自分が好きに相手に言われて、相手の気持ちも判然としないのに、気にしないでいられるわけがない。
そこで俺が押し黙ると、
「いや、本当に、違うんです。すぐに答えが出ないというか、ほら、あまりに、環境の変化がめまぐるしいので、自分の脳がついていけないというか」
………こんなふうに、慌てて答えるので、そこを押しのけて追求することも出来ない。
俺はクリスが好きで、クリスも俺が好きだと少なからず思っていた。
傲慢でもいい。
俺はそう思いたかった。
クリスがいずれアインスに帰るとしても、そこで俺たちの関係を終わらせたくはなかった。むしろ、側にいて俺との関係を凍らせるくらいなら、俺は クリスには自分の選んだ生活をしてもらいたかった。
アインスとゼクスという距離を飛び越えて、俺はクリスを好きでいたかった。
クリスの単純で、不透明で、けれど俺に嘘をつく事は全くない態度が、少なからず俺を不安にさせていたのは事実だ。
だが、いざこうして、ゼクスに残ると言われると、喜ぶべきことなのに素直に喜ぶことが出来ない。


無理をさせたくない。
我慢もさせたくない。
俺の勝手で巻き込むのは一度で充分だ。
一度だって、巻き込みたくなどなかった。

俺とクリスが出会わなくなるとしても、俺は絶対にしてはならないことをした。


クリスの両手に残る傷。
包帯はほどけても、一生消えない傷が残った。
両掌に、不釣合いなほどに真っ直ぐに残った線は、健康的なオレンジ色でも、血肉の朱色でもなく、何故か雪のように真っ白だった。

「新しい皮膚だから、色が白いんでしょう」

クリスは全く気にしなかった。
ふりではない。本当にクリスにとってその傷はどうでもいいことのようだった。
自分の意思で、俺の妹が握った刃物を握り返した。刃の部分を。誰も傷つけることのないようにと握り締め、奪い、血まみれの手で俺に刃物を向けた。
俺に誰も殺させないために、クリスは俺の前に立ちふさがり、俺と妹はクリスに助けられ、そして。


「―アレンさん?」


「いや、何でもない」
話しかけられたのかも、お互いに無言だったのかもわからないが、とりあえず返事をする。
察しのいいクリスが、「そうですか」とだけ言って、速さを緩めることなく真っ直ぐに歩き続ける。
揺れる腕。その先にある二つの掌。
これから先、ずっと消えない傷。
痛みを伴うものでなくとも、刃を握った瞬間には絶対に痛みがあったはずなのだ。
刃の部分を素手で握るという恐怖。
信じていた人間に刃物を突きつけられるという恐怖。痛み。
生きていく中で、味わう必要もない感覚をクリスは味わい、それでも、俺に償う必要などないとはっきり言った。



彼女がどんなに強くても。弱くても。俺にはクリスが必要だった。
俺は守りたかった。自分が守られる存在ではなく、クリスを守りたかった。今も守りたい。
側にいたい。
そう願うのは俺ばかりで、クリスはいつも、自分を大切にしなかった。
俺がどんなに大切にしたいと思っても、クリスはいつも自分自身を飛び越して何処かへ行ってしまう。
返って来る言葉はいつも同じで、


「あのですね。私を聖人君子か何かと勘違いしてるんじゃないでしょうね…。基本的に私は、自分がしたいようにしか出来ない人間なので、 特別大層なことをしているという意識もなにもないので、本当に、アレンさん、私を過大評価しすぎないようにしてください。 ただただ、淡白なだけなんです。物の考え方が。後悔することが山ほどあっても、全部自分で選んでることですから、それは別に 誰かに責任を取ってもらおうとは思いませんから。いや、愚痴ったりはしますけど。何でも自分で背負えるわけじゃありませんしね。 その辺はほら、臨機応変というか、お互い様というか…。生きていれば、色々ありますよね」


そんなこと、当たり前だと言いたげに、クリスは傷のついた両手でぱらぱらと、本のページをめくるのだ。




城門には俺の見知った兵士の姿もある。だが、騎士服を身にまとっていないということは、騎士としての職務ではないということで、個人的な事情でいる場合には、 兵士は俺に話しかけてこない。それが礼儀であったし、俺もそうするように態度で示してきた。
人の往来が激しいゼクスの城門。
街と、街の外を繋ぐ川のない橋。
商人が行き来し、様々な馬車が停留する。
首都から出て行く者。帰って来る者。これから帰る者。旅立つ者。


俺たちは、二人で、二度とここへは戻って来れない者を見送りに来た。


「………」
クリスが、珍しく俺の袖をひっぱった。
肉体的接触に乏しい彼女の行動に目をやると、視線の先に、平凡な馬車があった。
貴族用でもなければ、商人用でもない。
ただ、旅の人間が使うような乗合馬車に、幾人かの人間が寄り添うようにして乗っている。
一様にその顔は陰鬱で、楽しい旅になるはずもない。
その中に、若い顔を見つける。
真っ赤な髪はもう何処にもない。
真っ黒な髪に、真っ黒なまつげ。緑色の瞳をした俺の妹。


距離は離れており、あの馬車には部外者が近づくことは許されない。誰であろうと、周囲にいる見張りの護送兵に止められる。
公子の暗殺を企み、俺を大公に仕立て上げようとした妹は、捕まり、裁判を受けた。
そして、国外退去を命じられた。首都はおろか、この公国そのものにも二度と戻ってこられない。
まだ十五歳の俺の妹。
俺がこうして変わらぬ立場でここにいるのに、妹は、この国から出て行かなければいけないのだ。

俺は騎士として、兄として、恩赦を願い出ることは出来ず、クリスは、人として事実だけを述べた。

声をかけることもできない。
何を叫んだらいいのかもわからない。
馬車の中にいる妹の表情は遠すぎて全くわからない。
何を考え、これから先、どうやって生きていくのかすべてわからないまま旅立つこと。これが、妹に与えられた罰なのだ。


真昼発の馬車が動きだす。高い日にあぶられ大地から湯気が立つ。
人は誰もその馬車のことを気にしない。
俺とクリスは、微動だにせず馬車がゆっくりと遠ざかるのを見送るしか出来ない。




「ダイアナ!」




真横、下の方から大声が聞こえた。張りのある声は真っ直ぐに届き、声をかけられた相手は振り返る。


「手紙、待ってるからね!」


黙るしか出来ないのは、俺だけだった。
クリスは、人の目を気にすることもなく、またいつものように、何でもないことのように、大きな声で遠い再会の約束をした。

遠ざかる馬車。その奥にいるダイアナの表情はやはりわからない。けれど、もうローブで髪を隠す必要のなくなった妹は、 その姿が確認できなくなるまでずっと、俺たちのほうを向いて背を向けることはなかった。
小さな手が、わかったと約束するかのように、小さく振られていた。









「…大胆だな」
「今更ながら恥ずかしいですが、まあ、一瞬だと思えば」
「行動がとんでもないわりに、君はわりと恥ずかしがるな」
「とんでもないことはないでしょう。多分…。アレンさんも何か叫んでも良かったのに」
「俺が?」
「咄嗟には思いつきませんか。私も、ずっと今日、ダイアナに何て言おうか考えてたんですけど…」


馬車が去った後、俺とクリスは何となく城門から離れられずに、脇によって立ち話をしていた。
城門の影で、熱気も薄れ風も通る。
クリスは、真剣な顔をしていた。


「ダイアナにとって、私は少なくとも救い主じゃありませんから。結果として計画を潰したのはこの私ですから。許してとか、お互いに言える間柄じゃありませんしね」
「そんなことはない。君は俺と妹を救った」
「いえ、そうではなくて私の問題です。ダイアナがそれを感謝してくれれば嬉しいですけど、そうでなくとも、それは私が受け止めなくちゃいけないことです。 嫌われたとしても、私は私が思うようにした」
「クリス」
「だから、色々考えたんです。ひょっとしたら私の姿なんて見たくもないかもしれないとも思いました。私は裁判でダイアナの弁護をしなかった。 事実だけ言って」


クリスは裁判の前に事情聴取として、言を取られた。
淡々と事実だけ述べ、俺とダイアナの関係には一切言及しなかった。


「私だけが巻き込まれたのは、結果です。あの馬車にもっと多くの乗客が乗っていたら。御者のおじさんが怪我をしていたら。私が死んでいたら。アレンさんたちが死んでいたら。 大公殿下が殺されたら。そのどれもありえる可能性として、ダイアナは自分の計画を実行した。それは、ダイアナが受け持たなければいけない責任です」
許す、許さないの問題ではなく、一人の人間として自分の起こした行動に責任を持つべきだと、クリスは言った。
「でも、それと同時に、ダイアナは誰も殺さなかった。それも事実です」

クリスは穏やかに、けれど険しい顔で言った。
あの教会での出来事を思い出しているのだろうか。自分が身体で止めた刃物。そのせいで、ダイアナは人殺しの罪を被らずにすんだ。
「だから、私は、できることならダイアナともう一度話せたらいいなと思います。事件の話じゃなくてもいい。例えば、これから先ダイアナが生きていく 場所の話とか」
「…だが、ダイアナは戻ってこられない」
「そうですね。だから、私が残りました」


あっさりと、クリスは言った。
いつもの声。
何でもないことを、何でもないように言い、実行する。


「私がゼクスに残っていれば、ダイアナから手紙が来ればわかります。アインスの住所は教えている暇がありませんでしたから。 でもゼクスなら、アレンさん宛てに手紙を書けば絶対に届きますしね。住まいが落ち着いたらこっちから会いに行ってもいいじゃないですか」
「………君は、そのためにゼクスに残ると決めたのか?」

「まあ、手紙が来るかどうかはわかりませんけど。来たときにわかりやすいほうがいいじゃないですか。うっかり見落としでもしたら大変ですし」


去っていく最後まで、クリスはダイアナを見据え、ダイアナもクリスを見返したのだろう。
その言葉に、どれだけの思いが込められていたのか、ダイアナに届いたのだろうか。


「そうか…。君が…ダイアナを嫌わずにいてくれて、俺は嬉しい」
「嫌いじゃありません。困りはしましたが。実際、仲良くなれるかどうかもまだまだわかりませんし」
「それは、そうだな」
「遠くにいても仲良くなれる人もいれば、近くにいても仲の悪い人もいますよ。例えば眼鏡とか」
「…具体的過ぎるからやめてくれ」

苦虫を噛み潰したような顔のクリスを見て、俺はため息をつきながら、ふと思った。


「いや、それならばクリス…」
「はい?」
「それなら、俺だけがゼクスに残っていてもいいだろう。俺宛にダイアナから手紙が届けば、絶対に君へ届けに行く。君はアインスに帰っても…」


いいのでは、と、俺が言葉を続けようとすると、クリスの顔が歪んだ。

「あの、さっきからアレンさんやたらと、私がゼクスに住むことを確認してきますけど…。私が、ゼクスに住むと何か困るんですか…?」
「そんなことはない」
思わず上ずって声が大きくなる。
周囲の視線が一斉に俺たちに向けられたようだったが、俺は気にもしなかった。クリスが逆に、おたおたと周囲を見回して顔を赤くしている。
「困らない。全く」
「そ、そうですか。それは良かった」
「俺は困らない。だが、君はどうなんだ? 君はアインスでの生活があるのだろう」
「そうですね。古本屋の店主にはちゃんと挨拶に行かなきゃいけないですね。ずっと長くお世話になったところですから」
「それならば、無理にそれを捨てることも―…」
「アレンさん」
クリスが、真っ直ぐに俺を見上げている。




「あの、できれば、一緒に、一度、アインスに来てもらえますか。それで、この人と結婚しますと、その、挨拶を…したいんですが…お時間が…取れれば…で、 いいんです…けど………」





語尾が完全に消えた。



「………………」
「だ、黙られると困るんですが」
「すまない」
「いや、謝られても困るんですが」
「そうか」
「そうですよ」

言い馴れないことを言ったためか、クリスが脱力して城壁にもたれかかる。

「どうした?」
「緊張したんですよ! しますよ緊張! せ、精一杯の告白なんですから。なれないことすると、えっらい疲れるんです」

一気にまくしたてる時は、照れているのを隠しているときだ。

「クリス」
「何ですか?」
「君は、俺と結婚してくれるのか」
「えっ!? あ、あれ。ひょっとして私の勘違いでしたか!? 私てっきり、この前プロポーズされたのかと…! それで、返事をずっと先延ばしに してしまったので、答えないとと思ったんですが…。しまったああ! 赤恥か!?」
「いや、勘違いではない。プロポーズをした」
「そ、そうですか。そうですよね。ははは、ここで勘違いオチだったらさすがに私この場で逃げますよ」
「逃げられたら困る。結婚するのだから」
「………いや、私も困りますけどね」
「クリス」
「は、はい?」
「君は俺と結婚して、俺と共にゼクスで暮してくれるのか?」

あまりに、俺の顔が疑問でいっぱいだったのだろう。
クリスは、半ばあきれ顔で言った。

「だからそう言ってるじゃないですか。何度も。私は私のしたいようにするって…。私は自分の生活が大事なんです。アレンさんと、その、ええと、つまり、 けっ、結婚するのであれば、それが、私の生活になるんでしょう? だから、私はゼクスで生活を始めますよ。生活できればいいんです。場所が移っただけです。元々アインスだって、 故郷のツヴァイから出稼ぎに出た街なわけですし」



いともあっさり。
当たり前を当たり前に。
淡白な返事を、クリスは、自分の人生の大事ではなく、まるで気に入った本の冒頭を暗唱するかのように、ただ言った。


それが彼女の選択だった。
俺の悩みを一撃で粉砕して、クリスは、



「この手と同じですよ。傷は残っても手は手です。痛かったとしても今は痛くもなんともありません。この手で、私は、これから先も ずっとアレンさんと生活していくんですから、それは、私にとってなくてはならない大切なものです。それに、人を守ってできた傷は誇りだと、 そう私に言ってくれたのは。アレンさんじゃないですか」



俺の目の前に、傷ついた手を、ずい、っと差し出した。
クリスの手。これから先、彼女を支えていく手には、真一文字に傷がある。
俺がつけたその傷を、クリスは大切だと言ってくれた。
今はもうなくなった、初めてダイアナを庇ったときにできた頬の傷も、見ることは出来ないけれど大切なのだと。




「ははは。少しかっこつけすぎましたね。まあ、ともかくですね、暮らすのであればやっぱりそれなりに準備を…し…なくちゃ…」



声がする。俺の少し下のほうで。
ごつごつと、派手な衝撃が俺の腹やら、脚やら、そこかしこで響くが、そんなものはそよ風だ。



「離せー!」


俺には何も聞こえない。
クリスが自分のしたいようにしたように、俺は俺のしたいようにした。
俺は自分に差し出されたクリスの両手を掴み、そして、唇を落とした。
長く長く、まるでその両手に刻まれた思いを味わうかのように。


「うおおおー! 離してー! 性質が悪い、この人性質が悪いー!!」




離さない。
絶対に。
この手を取るまで俺は短いが長い七日間を過ごした。
そしてこれから先もずっと、俺はこの手を離すことはないだろう。


周囲の雑踏からざわめく声がする。
遠巻きに見ている兵士たちの驚く顔が目に浮かぶ。
身体に衝撃を与える風が愛しくて、俺は、手首を握っていた手を離し、一瞬で抱きしめた。



「………!?」
「クリス」


今度はそうして、傷の消えた頬に唇を寄せる。






クリス。
そろそろ君も覚悟を決めるべきだろう。







俺という男が、どれだけ、君のことを愛しているかということを。