『Seven Days War』 創作 アレン2 ネタバレ注意


頭痛と、悪寒と、発熱と、喉の痛みに咳。
「風邪ですな」
医師から至極あっさりと告げられた病名を受け、憮然としたまま、反論する気力もなくベッドに横たわっているのは、ゼクス公国の騎士位を持つ、真っ黒い髪に、 緑がかった瞳を持つ、アレンだった。




四日前、地方の遠征に出た帰り、街の門をくぐった際に、僅かだが悪寒を感じた。
根が丈夫であり、病気とはあまり縁のない生活を送ってきていたアレンは、その悪寒を「気のせいだ」の一言で片付け、遠征後の雑務に追われた。
そして、一通り報告などが済んだ夜半、いざ風呂にでも入るかと思えば、どうにも頭がくらくらする。
おまけに、咳も出る。
喉の痛みはあまり感じなかったが、普段の体調と比べると、明らかにおかしい。
確かにおかしかったのだが、「疲れているのだろう」の一言でこれも片付け、入浴し、ベッドに入った。


横になれば、三秒で眠れる男アレンが、次に目を覚ましたとき、体調は完全に悪化し、ベッドから起き上がれない状況にまで進んでいたのだった。




それでも、ふらつく足を無視して何とか起き上がり、汗だくの身体を着替えようとして、派手にハンガーを倒し、その音に仰天した従者が飛んできて、 無理やりベッドに寝かされ、医師の診察を受け、今に至る。


医師から、熱が下がるまで絶対安静の指示を受けながらも、アレンは、騎士という体調を常に万全に整えておかねばならない身分の自分が、 風邪などで高熱を出し、身動きもままならない状況に、心の安静は全く保てないでいた。

「いい休養だと思って、しっかり休みなさい」

と、医師は多忙なアレンを気遣ってか、そう言ったが、アレンからしてみれば、そんなことはどうでもいいから早く風邪を治してもらいたかった。
治しがいのある患者では決してなく、隙あらばベッドから抜け出そうとする、優等生とは言いがたい患者を抱え、従者は余計に目を光らせ、 トイレにまで着いて来そうな勢いだった。

さすがにそれはやめさせたが、アレンとしても、気は確かでも身体が追いつかないのは確かだった。
安静にしているのが、職場復帰に一番近い道なのだから、これは逆らわず寝ているしかないだろう。


そう覚悟を決めて、医師の処方した不味い薬を飲みつつ、ベッドの上で腹の足しにもならないオートミールを食べたり、寝るのにも飽きて、ぼんやりと 天井を眺めたりと、動きを止めた回遊魚のように、覇気のない生活を送るアレンは、熱の冷めぬ夜や、昼や、朝に、ぼんやりと同じ事を思った。




クリスは―どうしているのだろう。




アレンにとってクリスは特別な女性だった。
同じゼクスに住み、公国図書館に勤めている25歳のいきおくれで、容姿もぱっとせず、性格もさばさばしていて、とてもではないが女の子らしい可愛らしさは 欠片もない人間だったが、アレンにとって、他の女性など眼中になく、彼の心は常にクリスのものだった。

ものだ、と言われたところで、言われた本人が「いりません」とのしをつけて返してくるのが目に見えている関係なのは、若干寂しくもあり、 悔しくもあるが、クリスのことを病床で一番多く考えるくらいの自由は、アレンにもある。


お互いに仕事を持つ身であり、そうそう会える立場にもないが、アレンは時間があればクリスに会いに行っていた。
その時、クリスが仕事中であれば挨拶をして帰るし、休みであればそれなりに過ごしたりもした。
遠征に行く日も、これからしばらく会えなくなるから、と挨拶にも行った。

クリスはアレンの訪問を受けて、
「気をつけてください。気をつけすぎる、ということはないですから、充分に気をつけてください」
と、遠征の内容を聞かずにそればかりを言った。


自分の身を案じている、ということがはっきりとわかり、アレンは上機嫌でクリスを抱きしめ、クリスに鬼のように怒られ、それでも機嫌を損ねることなく、 部下に「いつも鉄面皮の隊長が一体どうしたんだ」と、心配されるくらいの、高揚した気分で遠征に出かけたのだ。




遠征は滞りなく終わり、四日前アレンは、首都ゼクスに帰還した。
長い間留守にしていたのだから、クリスに顔を見せに行こう。
―クリスの、顔が見たい。
と思ったのも覚えている。


だが、こうして風邪をひき、ベッドから起き上がれない状況で四日も過ぎてしまった。
この四日、医師と従者しか見ていない。


「………………………」


アレンは、朦朧とした意識の中で、一つの事に気づいてしまった。




クリスが、見舞いに来ないのである。





他の騎士や、身近な人間が見舞いに来ないのは、従者にきつく念を押していたからだが、従者は見舞いに来た人間をきちんと、アレンに報告していた。
あきらかに遊び半分の大公や、そのお付の騎士。物珍しそうな反応をしていたという若き騎士など、見知った人間の報告は受けたが、 クリスが来たという報告は聞いていない。

クリスのゼクスでの生活範囲や、人間関係は非常に狭く、その関係の中にアレンは密接に関わっていた。
大公が知れば、クリスも知るだろうし、騎士連中が知ればやはりクリスも知るだろう。


それなのに、クリスが見舞いに来ないのである。


「………………………」


絶対無敵の騎士といえども、人の子である。
いくらアレンが、無表情で感動に薄い人間だったとしても、好きな相手が見舞いにも来ないのは、さすがにこたえる。
ただでさえ、病床で気が弱くなっている最中に、あからさまにクリスだけ見舞いに来ていない、というのは、避けられている、ということなのだろうか。


「………………………………………」


熱でぼんやりとした頭で、クリスのことを考える。
元々、来たくて来た首都ではない。住みたくて住み始めた街でもない。
こちらが一方的に好きになり、強引に引き止めたようなものだった。
今でこそ、ごく普通に会話をする関係だったが、思い返せば、こちらが巻き込んだ事件の責任者として、憎まれてもおかしくないのだ。
それなのに、クリスがあまりにその話をどうでもいいことのように語らないから。
自分を責める言葉を一切言わないから。
だから―俺は、少し勘違いしていたのかもしれない。




クリスも、俺が好きだということを。




一度深みに嵌ると、抜け出せない泥沼に、アレンといえどもずぶずぶと沈んでいった。
アレンは、心中の悩みを口に出さない―正確には出す手段を知らない―だけで、何も思わないわけではなかったから、落ち込むときもあるのである。 年に三回くらいだが。

その落ち込みが、よりにもよって風邪の真っ最中に訪れてしまったアレンは、荒い呼吸をしながら、無理やり考えるのをやめて、 そろそろ横になりすぎて痛くなってきた体勢を変えながら、きつく目を閉じて毛布にもぐりこんだのだった。






それから二日は、何事もなく過ぎた。
一週間も経とうかという日に、医師の診察を受け、熱が完全に下がれば、明日にでも職場復帰をしてもいい、とお墨付きをもらったアレンは、 長い闘病生活に別れを告げることができると、ほっとしてベッドに半身を横たえていた。
長い間入浴をしていないせいか、髪はぼさぼさで、無精ひげも生えていたが、何とか自由に動かせるようになった身体を確かめて、 アレンは満足の笑みを浮かべた。


これで、一眠りすればもうよくなるだろう。
一週間も休んでしまった。仕事もたまっている。
明日、早く起きて執務室に向かい、いや、その前に騎士長に挨拶に行かなければ。
そんなことを考えながら、飲んだ薬が効いてきたアレンは、うとうとと眠りに落ちていった。




ひやり、と冷たい感触が額に乗せられた。
氷だろうか、それでは自分はまた熱でも出したのか、と夢うつつに思うが、冷たいものは柔らかい感触をしている。
冷たさはすぐに離れ、側で何か動くものがある。


何だろう。


体調が万全であれば、すぐに気配で誰かわかるのだが。
アレンは、ぼんやりとしたままうっすらと目を開けた。
視界に天井と、自分に背を向けて立っている後姿が入る。
後姿は、どうやら女性らしく、髪を後ろで一つに結わいている。


ぱしゃぱしゃと、小さく水を使う音が聞こえ、後ろを向いていた女性は、くるりとアレンに振り返った。





「あ、起きちゃいましたか?」



「………クリス」
公国図書館の制服を着たクリスは、いつもと変わらぬ化粧っけのない顔で、アレンを見て言った。
手には、絞られたタオルが握られている。


「汗をかいていたので、額だけでも拭こうかな、と思ったんですけど、起こしちゃいましたね」


そう言いながら、しぼったタオルで、ぽんぽん、と軽くアレンの顔を拭いていく。
アレンは、されるがまま、ぼんやりと目の前に急に現れたクリスを見ていた。
「はい、終わりました。どうですか、気分」
「………悪くない」
「だいぶ熱が出ていたみたいですからね。でも、もう下がってるみたいですから。後はゆっくり眠ればすぐによくなりますよ」
言いながら、汗を拭いたタオルを綺麗に洗って、片づけているクリスを見て、アレンはやっと自分の置かれている状況を理解した。
「クリス」
「はい? 何ですか」
「………いや」
クリスは、手近にあった椅子に腰掛け、アレンの顔を覗き込んでいる。
「気分でも悪いんですか? お医者さん呼びましょうか」
「いや、いい」
「何か食べますか? 少し痩せましたね」
「いや、いい」
「一週間も寝ていれば、体重も減りますよね。でも、すぐにまた元気になりますよ。丈夫ですもんね、アレンさんは」
「クリス」
「はい?」


名前を呼ぶばかりのアレンに、クリスは次の言葉を待っているようだった。


ただ、アレンが何も言わないので、仕方がなく―、


「………心配しましたよ」


本当に、仕方がなく、そう言った。




クリス自身は、そう言ったつもりだった。




だが、アレンにはそう受け取れなかったらしい。



一瞬目を丸くすると、少し痩せた顔で、まばらに生えた無精ひげもそのままに、やっと安心できたかのように笑った。





「………会いたかった」



「………………………………………………」


完全に赤面するクリスと、完全に満足して微笑むアレン。
「君に、会いたかった、クリス」
「そ、そうですか」


言いたいことを言ってすっきりしたのか、居心地が悪そうに視線を泳がせるクリスをよそに、アレンは目を瞑って笑っている。
クリスも、病人に何を言っても始まらない、と思ったのか、黙って椅子に腰掛けていた。
少しばかりの沈黙が流れ、反応のなくなったアレンを見下ろし、クリスはそろそろと席を立とうとした。


「クリス」
「うわっ!」

寝っていたように見えたアレンが、ぱっちりと目を覚まし、クリスの腕をがっしりと掴んだ。

「び、びっくりしましたよ。寝たのかと思いました」
「起きてる」
「………そうみたいですね」
「帰るのか?」
「ええ、そうですね。あまり長居してもなんですし。やっぱり人と話すのって疲れますから。お大事になさってください」
「………………………」
「いや、あの、そんな不服そうな顔で見られてもですね………」
「何でもいいから、しゃべってくれ」
「な、何でもいいって………。お題もなしにそんな」
「俺は、君の声が好きだ」
「………………………」
「君の声が側に聞こえると、安心する」
「そ、そうですか」


握られたままの、クリスの手首。
アレンは熱い手で握ったまま、離そうとしない。
心底困った顔をしたクリスの、握られていない方の手に、アレンは本を見つけた。


「それは?」
「ああ、これ。同じ寮の人に頼まれていた本なんです」
「じゃあ、それを」
「え、これを読むんですか?」


こっくり、と頷くアレン。
クリスは、眉間に皺を寄せたが、観念したのか、立ち上がった椅子にまた座った。
それを見て、アレンもやっと握っていた手首を離す。


「じゃあ、読みますね」
茶色の背表紙をめくり、クリスは視線をアレンから本へ移した。






「………軟体動物門腹足綱直腹足亜綱異鰓上目に属する一グループ。貝殻が退化したり全く無くなった巻貝の仲間。ウミウシの厳密な定義はなく、 全く貝殻を持たない裸鰓類を示すことが多いが、アメフラシ等の退化した貝殻をもつ種も含めた後鰓類を示すこともある………」
「………クリス」
「はい?」
「それは、何の本だ」
「世界のウミウシ。という本です」
「………………………………………」
「だから、頼まれた本だって言ったでしょう。………どうします?」
「………………………」
「………種によって産卵の時期は異なる。多くの種は渦巻状の卵のうを産む。イロウミウシ科・クロシタナシウミウシ科はきしめんのような形、 オオミノウミウシ科・ファセリナ科は紐状の卵のうをしている。シロウミウシ・アオウミウシ・リュウモンイロウミウシ・ミヤコウミウシは白色、 マダラウミウシは黄色、サラサウミウシはベージュ色の卵を産む………」


結局クリスは、アレンが眠るまでの間、ウミウシの生態について、延々とページをめくらされたのであった。







次の日。
一週間の闘病生活も終わり、きれいさっぱり風邪とおさらばしたアレンは、実にすがすがしい朝を迎えていた。
汗だくだった身体を流し、たっぷりと朝食を取り、着慣れた騎士服に身を包む。
引き締まる思いを感じながら、いつもより早い時間に騎士寮を後にした。




「アレン殿、もうお加減はよろしいのですか」
「ああ。迷惑をかけた」


騎士寮の門番がアレンに声をかけてきたので、礼を言って返すと、歳若い門番は朗らかに笑った。


「いいえ。あのクリスさんも安心されたでしょう。毎日お見えになってましたから」
門をくぐり、外に出ようとしていたアレンの脚が、ぴたり、と止まる。
「………何?」

「毎日お見えになっていましたから。仕事帰りに寄られて、具合はどうなのかと聞いて、熱が高いうちはその場でお帰りになっていました。 邪魔になるからとおっしゃって。昨日は、熱も下がったことですし是非会って行かれては、とこちらがお勧めしたので、 アレン殿の下へ行かれたのです」

「………………………」
「あ、あの、要らぬ世話でしたでしょうか」
「―いや、そんなことはない。感謝する」
「え? ええ、はい!」






その日。

アレンが仕事を終わらせるまで、クリスの勤める公国図書館に一歩も足を踏み入れなかったのは、限りない忍耐との戦いの結果だった。




「あ、アレンさん。良かった。風邪治って、熱も下がったんですね。今日はお仕事の帰りですか? あまり急に無理しないほうがいいで…ギャー!!」





執務時間終了と共に、公国図書館に駆けたアレンは、帰宅するクリスを捕まえ、公衆の面前で、これでもかというくらいに抱き潰したという。
巨体に抱きかかえられ、ぶんぶんと振り回されるクリスの悲鳴は、やがてかすれて消え、その後は周囲の視線も顧みず、アレンが絶叫するクリスの 口を塞ぐところで、ふさがれた方は、彼の完全回復を知ったのだった。