『Seven Days War』 創作 ベルナドット ネタバレ注意


その顔はよく知ってる。
「…………………」
「そこまで嫌がらなくてもいいだろ!」
「嫌がってません。へこんでるだけで」
「同じだろ!?」

心底面倒くさいと言いたげに、平たい視線を僕に向ける。その見知った顔は、旅の間中ずっと似たような顔で僕と、僕の仲間たちを睨んでいた。
ダイアナという髪の赤い女の前に立ちふさがり、タンカをきって。
その頬からは、だらだらと血が流れて固まった跡があり、身じろぎするような光景だった。
強い意志で、クリスは文字通り、事件の総てをねじ伏せて、今も、ゼクスにとどまっている。


物言いは柔らかくなく、物腰も穏やかじゃない。
口から出る言葉は物騒で、喧嘩腰で歩いているわけじゃないのに、いつも僕とは口喧嘩が絶えない。
そんな歩く爆弾クリスが、今も、今まで生活していたアインスの街ではなく、僕の住む首都ゼクスに住んでいるのは、多分、僕がそう願ったせいなんだろう。


「ここにいろよ」


わざと、ぶっきらぼうな口調でそう言った。
朝日の中で見るクリスの姿は何だかとても眩しかった。
肌の色も、髪の色も、瞳の色も僕よりずっと濃いはずなのに、濃さがより際立ったせいなのか、僕の目に刺さるように眩しい。
クリスは、剣呑な視線で僕を見下ろし、あきれた声で言った。

「帰ってくるから、帰ります」

おかしな言葉だったが、嬉しかった。
あいつの故郷は大体アインスじゃない。ツヴァイという村だったはずだ。だけどあいつは、自分の両親のことなどどうでもいいと言いたげに、 自分が十年間生活してきたアインスに一度身辺整理に帰り、その後またゼクスに戻ってくると約束した。
一瞬、クリスの故郷のことが頭に浮かんだが、それも一瞬のことで、僕はただ、クリスが僕と約束をしたという喜びに笑いそうだった。


約束は、守る。


あいつはいつだってそうだ。守られない約束は約束ではないと言った。
守ってこその約束なのだと。守るために必死になっても、辛いめに遭っても、どうしても果たさねばならないこと。
クリスは、約束という言葉とそれを守るために生きる自分が好きだったのだろう。
事実、クリスは僕と出会ってから、一回も約束を破ったことはない。


僕の容姿に触れるなと言ったとき。
親が嫌いだと告げたとき。
十五年前の出来事を思い返したとき。
僕の話を聞いてくれるかと尋ねたとき。


「聞きますよ。待ってます。必ず」


他の誰の言葉より、あいつの言葉には本当がある。
真実というと照れくさい。
真心というほど大したものじゃない。

あいつはいつも、呼吸するよりも当たり前に、僕の心を軽くした。

他の誰にもきかない、僕だけの。
僕だけにしか通用しないのが、無性に癪に障る。
いつも、先手を取られて、何もかもわかっているような顔をして、二つしか違わないのに、大人びた顔で僕を見上げる。
言葉も動作も常に行動的で、場をかき回すような真似はしないが、場をかき回そうとする存在には容赦しない。
僕が一つ言うと、あいつは百返す。
僕が百返すと、あいつは一で僕をぐうの音も出ないようにさせる。



そのたびに僕は、あいつをどうにかして、もっともっと僕を好きになってしまえと思うのだけれど、そんなこと言えるか馬鹿馬鹿しい。






帰り支度も終わっていたクリスを呼び止めたのは、一連の事件の最終的な報告も含め、騎士長に紹介しようと思ったからだ。
僕の家は、代々続いてきた貴族の名家で、僕の代―正確には親父の代―で大きく傾き、威信を失ったとしても、貴族ぜんとした付き合いや、 無駄なしきたりがごまんとあった。
くそエリックが捨てた、公国継承に関する『宣誓』。
それを利用しようとしたエリックの双子の弟フレデリックのたくらみに加担した、僕の父リークス公の裁判にも、一応の決着がつきそうらしい。
らしい、というのは当事者であり、当事者の息子である僕に、裁判の内容は事細かには伝わっては来なかったからだ。
多分、最低でも領地没収の上、貴族位を剥奪されるのだろう。
そうすると、僕の代で事実上のリークス家はおしまい、ということになる。
騎士は、拝命した時点で貴族と同等の爵位をもつことになるが、それはあくまで、仕事にくっついてきたおまけのようなもので、僕自身は特別意識しなかった。
僕は騎士として生きることにより、騎士として得た貴族となるが、生まれ持った貴族ではなくなる。
どうでもよかった。
僕は元々自分の家が嫌いだったし、家名を守ろうという気もさらさらない。
今思えば、最後まで勝つことが出来なかった、僕の兄オーガストも、きっと早くにあの家に見切りをつけたのかもしれない。
史上最年少という輝かしい記録を打ち立てたのも、すべて、あの家を出たかったからだとしたら。


………でも、そんなことは、ないか。
オーガストは強い人間だった。僕のように二十五年間親から逃げ回ったりは決してしないだろう。
向き合って、ぶつかって、くだけても、また立ち上がって笑う。
それができる人間は、失敗など恐ろしくもなんともないのだと言い、そのまま死んでいった。
取り返しのつかない失敗があったとしたら、それは、オーガストが殺された十五年前でもなく、僕が生まれた二十五年前でもなく、 父と母が出会ったもっともっと昔の話でもなく―――。




「へえ、随分冴えないお供を連れてんだな。お前にぴったりじゃないか」




………クリスを引き連れて、昼間の騎士舎に足を運んでしまったことだ。



僕はただ、今回かけた一連の迷惑も含め、今後の処遇もかねて、クリスを騎士長に紹介しようと思っただけだったのに。


「…随分直接的なお友達ですね」
「友達なわけないだろう!?」
「じゃ、あれですか。戦友と書いてともと読む、みたいな」
「気色悪いこと言うな!」


相手に聞こえるか、聞こえないかの声で、クリスがうんざりしたような顔で言う。
ただ、僕のように腹を立てているわけではなく、ただあきれているようだった。
クリスは、身近にいる人の事をとやかく言われると、烈火のごとくに怒り狂うが、自分に対しての誹謗中傷に無頓着だった。
「あながちはずれじゃありませんしね」
悟ったようにそう言う。
僕は自分をさげすむような、そんなクリスの物言いが正直あまり好きではなかった。
腹が立たないはずがない。不快に思わないわけがない。
でも、クリスにとってそれが最上級の感情まで発展しない、というのが、逆に僕にとってどうしようもなく腹が立つことなのだ。


だって、腹が立つだろう!?
ただ巻き込まれただけで、礼儀を守って挨拶に来て、見ず知らずの人間に見下されたら、頭にくるだろう普通!
僕はくる。
それどころか、この場で目の前にいる、クソ野郎をたたっ斬ってやりたい。
前々から、くだらない連中だと思っていたが、本当に騎士って奴はどうしようもなくくだらない。



騎士舎の中庭で、僕は僕を敵視している連中に遭遇してしまった。
僕とクリスが並んで歩く。その廊下の正面に、にやにやと笑いながら好奇心むき出しで、僕たちを待ち構えている数人がいた。


「………うわあ、面倒な」
僕より先に、クリスが雰囲気を察したのだろう。
「どうします? 打ち倒して進みます?」
「できるか!」
物騒な発言を切り返し、ともかく視線を合わせずに、二人で無言で横を通り過ぎようとした。
が、上手くいくわけがない。
訓練後なのか、三人の男が、訓練用の剣を持ってにやにやとこちらをうかがっている。

向こうはともかく、僕に難癖をつけたくてたまらないのだから、どれだけへりくだったって、見逃されるわけがないのはわかっていた。

僕一人なら、無視して通り過ぎることも出来た。実際本当に腹が立てば、打ち倒してやったっていい。
だけど、そうはいかない。


今僕の横にはクリスがいる。


お世辞にも運動神経があるとは言えず、どちらかというと、塀の壁を乗り越えるのですらぎりぎりいっぱいな、運動とは無縁の生活をしてきたクリスがいる。
僕のせいで、銃に撃たれた傷痕を肩に持つクリスがいる。

守らなければならない、僕のたった一人の相手だ。


他の誰にも、侮辱させたりしない。


そして、僕としても、好きな相手の前で無様な真似なんて、絶対にしたくなかったのだ。





「どうしたよ、ベルナドット。そいつがお前の連れてきたあの事件の関係者だろ? 名前、教えてくれよ」
下品な声でクリスを指す。
僕の沸点が簡単に頂点まで達した。
「はじめまして。クリスと申します」
その横で、淡々とクリスが名乗り、頭を下げた。
因縁をつけてきた連中も、クリスの殊勝な態度に虚をつかれたのか、一瞬押し黙った。
大公殿下であるエリックにすら、ここでは言えないような発言を平気で言ってのけたクリスに一番驚いたのは、僕だった。
あの時は、あんなにくってかかっていたのに、静か過ぎる声が無駄に違和感がなくて怖い。


「へえ、お前よりは少しはマシなんじゃないのか? 挨拶くらいはできるんだな」
「………用件がそれだけなら、もうすんだだろう。これから騎士長の所へ行かなければならないのだから、そこをどいてくれ」
「騎士長がお前に何の用だよ」
「説明する必要はない」
「気取りやがって何様のつもりだ?」
「そりゃあ、上流階級の貴族様のつもりなんだろうなあ。国家の重鎮の息子様だ。俺らじゃとてもかなわねえよなあ」


…いつまでたっても、こいつらの言うことは代わり映えしない。
僕が貴族の重鎮の息子で、その結果、若くして騎士になったのがとにかく目障りなんだろう。
今までのこの程度の嫌味や、嫌がらせは山ほどあった。
騎士は、アレンのように平民からなる人間も少ないがいた。
だがアレンのように、志を持って自らの強さで騎士の地位を得た人間よりも、下手に貴族で、下手に気位の高い騎士のほうが、何倍も底が浅くて、あくどい。
貴族の世界しか知らず、平民馬鹿にして、自分よりも地位が上の人間が気に入らない。
本当に、馬鹿みたいだな。


そこまで考え、僕は途端に自分自身のことを自分で言ってしまったようで、目線を下に向けた。

フレデリックが、騎士を嫌ったのも、こんな世界に嫌気がさしたからなのかもな。


「おっと、でもベルナドットはもうリークス家の人間じゃねえよなあ。自ら親父を裏切って、大公に尻尾を振ったから、今回の事件は免除されたわけだし」
「へえ。自分の親父を打って我が身の保身、か。さすが貴族様の考えることは違うねえ」



これが今回の本題だったんだろう。
親父の裁判は秘密裏に行われたが、それでも漏れてしまうものは漏れる。
いきなり、重鎮の一人が隠居生活を送り始めれば、勘ぐるものがいて当たり前だ。


だけど、やっぱりこいつら馬鹿だ。


僕は、親父が反逆者になる前から親父が嫌いだったし、今だって嫌いだ。
親父が守ろうとした、守らなかった家だって好きだったことなんて一度もない。
そんな僕に、今更家のことで皮肉なんて言ったって、無駄に決まっているのに………。







僕は、忘れていた。


本当にうっかりしてた。


名乗ったあと、大人しく黙っていたクリスが、



「弱い犬ほど良く吼える」



ただ黙ったまま、人の侮辱を見て終わらせる人間じゃないことを。




「何!?」
「クリス!」



喧嘩上等。
クリス自身は腕力に自信など全くないと自分で言っていたし、喧嘩をしたことも全くないという。
それでもこいつは、宿命的に喧嘩の売り方が上手かった。


「あれ? 聞こえましたか。へえ、耳だけはいいんですね。やっぱり犬だからでしょうか」
「て、てめえ…。大概にしておけよ」
「やめろ!」

クリスの前に、身体ごと割り込む。
今ここで騒ぎを起こして、万が一、またクリスの身に何かあったらと考えると、血の気がひいた。
それでもクリスは止まらない。

「じゃ、どうしますか。私騎士のルールって良く知らないんですけど、こういう場合は決闘とかするんですかね?」
「するか! というか、するなそんなもの!」
「へえ。いいじゃねえか、お前がやるっていうなら付き合うぜ。前々からお前は気に入らなかったんだ。ここで生意気な鼻をへし折ってやる」
「うるさい。僕はお前と決闘する気なんかない」
「そうですよ。私がするんですから。相手を間違えてもらっちゃ困ります」
「そうだ、お前は引っ込んでろよ、ベルナドッ…」
「そうだ。クリスがするんだからお前は…って、何ー!?」



激震が走った。
僕はおろか、相手の男まで口をあんぐり開けて固まっている。
言った当人は、平然としたままで僕の後ろから顔を出し、
「当然でしょう。私が売った喧嘩なんですから、当然私が買いますよ。あ、でも私白い手袋とか持ってないんですけど、いいですかね?」
見当違いの発言をして、すたすたと中庭に歩き出してしまった。
決闘の会場はそこだと言うかのように。




「何考えてんだ、何考えてんだ、何考えてんだ!?」
「別に何も。あ、そうだそれ真剣じゃないですよね。貸してください」
「お、おう?」
「話進めるな! あと相手から借りるなよ! お前、意味わかってるのか!? 決闘だぞ!?」
「決着をつけるために闘う。略して決闘」
「辞書ひけって言ってない!」
「別にいいですよ。私は命が惜しい。相手は地位と名誉が惜しいんですから、真剣じゃやりませんよ。ねえ?」
「お、おう」
「そういう問題じゃない! 違うだろ!? お、お前、お前なあ!」
必死になって食い下がるが、クリスは頭にくるほど冷静で、相手から借りた訓練用の剣の手ごたえなんて確かめている。
元から、突拍子もない行動をしでかす奴だと思っていたけど、知ってたけど、ここまで物凄いとは知らなかった。

「剣何て握ったことあるのか!?」
「いいえ、一度も」
「自慢するなよ!」
「してませんよ」
「お前、本当に何がしたいんだ!? 決闘だぞ!? お前、口は出るけど手は出ないだろ!? というか出せないだろ!? 運動神経皆無なんだから!」
「………それはそれで複雑な評価ですけど。大丈夫ですよ、大丈夫」
「何だその自信!? 嫁にいけない体になったらどうするんだ!?」
「ハハハハ。大した冗談ですね。………くだらないことを言うと、怒りますよ」






あの時もこいつはそう言った。
フレデリックに銃を構えられ、銃口が至近距離で俺に向いた。
誰もが動かなかったそんな中、クリスだけは違った。
「銃を下ろせ! 下ろさなければ『証』は灰になる!」
そう言って、暖炉に握った皮袋を突っ込んだ。
中身はただの水。握った皮袋がただの水筒であるということは、僕しか知らなかった。


足元が真っ暗になった。吸い込まれるような奈落。


なんてこと。
なんてことを。
駄目だ。駄目だ、クリス。
やめてくれ。危険な真似はよしてくれ。
もし、ばれたら、フレデリックはきっとお前を―――。



フレデリックは銃を俺からそらし、下ろした。
その途端、火にあぶられもたなくなった水筒が破けた。


一発の銃声。
一発だけで止められたのが奇跡だったと、自分の動きを振り返っても思う。
ただ僕は銃口にかけられた引き金を止めたくて。
剣を振るってフレデリックを傷つけて、止めた。


フレデリックと、親父を捕らえることができたのは、クリスのおかげだった。あいつが機転を利かせてくれたおかげで、二人は捕まえられた。
僕は、気づかなかった。
全く気づかなかった。
僕の視界の隅に入るクリスは、泣きも喚きもせず、僕が二人を捕まえるのを黙ってみていたから、無事だと思ったんだ。


それなのに。


総てが終わり、僕が、クリスに振り向こうとしたその瞬間、ボタリと、やけにはっきりと耳につく音が室内に響いた。


血。


肩を銃で撃たれたクリスから流れ出た血が、床に丸い王冠を作った。



「クリス!」



撃たれて。血が流れて。クリスはふらふらと床に倒れ付した。
フレデリックの腕を切るのには間に合ったのに、クリスを抱きとめることはできなかった。

必死になって傷口を押さえる。
痛みにこらえながら、クリスは僕に抱きかかえられながら、


「くだらないことを言うと…怒りますよ………」


僕のせいだと言う言葉を遮って、笑いながら、痛みを我慢しながら、意識を失った。



眩暈がする。
何かの冗談か、これ。
何で、また、こんな。



僕の両側に男の仲間が立ち、がっちりと押さえつけてきた。

「おら、どけよベルナドット。俺も騎士だ。軽く撫でてやるだけさ」

相手の男も騎士だ。
女と決闘して、勝敗も何もないだろう。
クリスは僕の制止を振り切って、中庭で微動だにせず相手がやってくるのを待っている。
笑いながらずかずかとクリスに近づく男の背中には、僕の大切なものを辱めてやろうという匂いが、立ち込めていた。


「………覚えておけよ」
「あ?」
「クリスに傷一つでもつけてみろ。お前は殺す」



殺す。
絶対に殺してやる。



相手は、ぎょ、っとするように、やめるならいまだと思ったのか、一旦立ち止まった。だが、すぐまた虚勢をはって歩きだす。


「けっ。言ってろ。あの女を降参させたら次はお前だ」

クリスと男は向き合って立った。
中庭には既に何事かと、大勢の野次馬たちが周囲を取り囲んでいた。


喧騒の最中、クリスだけが妙に冷静だった。


「ええと、私決闘の方法とか本当に良く知らないんですが、やっぱり勝敗って、相手が参った、って言うまで続くんですよね」
「あ? ああ、そうだな」
「あと、口がきけなくなったりした場合とか、気絶したり、起き上がれなくなっても負けでいいでしょうか」
「へ、安心しろ。気絶するまでややらねえよ」
「ありがとうございます」

クリスはそう言って剣を構えた。
構えじゃない。ただ相手に向けているだけだ。握り手がついていなければ、きっとどっちが切っ先なのかもわからないくらいの素人が、 騎士と真正面からぶつかっているのは、滑稽を通り越して異様だった。
相手も、少なからずクリスに剣の心得でもあるものだと思っていたのだろう。
そんな様子も全く見せず、芝居でもなんでもなく、ただ弱い一般人だということに気づいてしまい、何処から手をつけたものかと迷っているようだった。


「クリス! 降参しろ!」
「おいおい、相手は素人じゃないか。あいつ一体何やってんだ?」
「早くけりをつけるならつけちまえよ。娯楽としても面白みねえぞー」
「うるせえな! 外野は黙ってろ!」
「クリス!」
「ベルナドットが次に控えてんだろ? 早くしろよ!」
「クリ…」
「ええと、じゃあ、行きます!」


先手を取ったのは何故かクリスだった。
クリスは剣を両手で握り…握って…多分、走ってるんだろう、あれは。
腕を振ることも出来ず、どたどたと走っている姿は、どう贔屓目に見ても、頑張って走ろうとしている、くらいにしか見えなかったが、ともかくクリスは一直線に 相手に向かって走り―。
「クリス!」
両脇を抱えている男たちを振りほどこうと、必死になって僕が力を込めているその前で。





「あ」






…クリスは、相手の目の前で、実に見事に正面から転んだ。






「………え………」
「あいだだだだ」


派手に転んだクリスは、その拍子に剣をぶっ飛ばしてしまい、慌てて膝をついて立ち上がりながら、相手の足元に転がっている剣を拾おうと手を伸ばした。


「す、すいません。い、今拾いますから。あいてて」
「あーもう、とっととし」









………さっき。
走っている姿が亀の歩みだとしたら。
その瞬間のクリスの動きは、隼のようだった。


クリスは男のすぐ近く。手を伸ばさなくても届く距離まで近づき、しゃがんだままの体勢から、文字通り目にも留まらぬ早業で、


「!」


急所に、蹴りをいれた。


その場にいた全員。正確には、僕と同じ性別の人間は、凍りついた。


「話せませんし、起き上がれませんよね。じゃあ、この勝負は私の勝ちということで」


悶絶して大地に横たわり、震える相手にそう言うと、クリスは転がった訓練用の剣を拾い、ついた泥を袖で払って、相手の男から少しだけ離れた場所に置いて、 僕の側に近寄ってきた。



「お、お、お、おま、お前」
「お待たせしました。行きましょう」
「お前…………」
「騎士長さんに会うんじゃなかったんですか?」
「お前…初めから、そのつもりで…」
「言ったじゃないですか。私、剣なんか扱ったこと、一度もないって」

しゃあしゃあと言ってのける。僕の両腕を捕まえていた男たちも、クリスの行動に完全にひいてしまい、僕たちを止める様子もない。

「クリス」
「行きましょう。そうしないと、どんどん私が帰って、帰る日が遅くなります」

相変わらずのおかしな返事で、クリスはそう言って笑った。




ほんの僅かだけ、いや、明日には忘れてしまうほどの一瞬だけ、僕は、相手の男に心の中で同情した………。









騎士長との会見は、思いのほか早くに終わった。
騎士長の部屋からは、中庭が丸見えで、さっきの騒動の一部始終を眺めていたらしい。


「いや、まあ、その…相手に非があると思うが…ほどほどにな」


それ以外言えない、騎士長の気持ちが痛いほどわかった…。




「やっぱり、領地は没収になりましたね」
「ああ。でもくそ、これ完全にエリックの差し金だろ。あいつに関わるとろくなことがない」
「全面的に肯定します。ようするに、名義を変えてそのまま、ベルナドットさんに移したってだけの話ですよね」


リークス公、俺の親父の家は断絶した。家名を残すことも、財産を残すこともなく、領地などは没収され、親父はいずれ片田舎にでも追いやられるのだという。
そして、空席となった元リークス一族が管理していた財産その他は、すべて、新しく僕のものとして新規登録されることになったのだという。

「くそ…。最初から最後まであいつと関わるのか」
「同感です。あの人絶対最初から、こうするつもりだったんだと思います。それをこの瞬間まで自分でも言わないというのが、根性悪い…」
「あいつに借りを作るのもしゃくだしな」
「借りなんて思わなきゃいいんですよ。ベルナドットさんはベルナドットさんで迷惑をこうむったんだから、慰謝料とでも思えば。勿論、 ベルナドットさんが、あの家に関わるものをいらないと放棄するのであれば、それはそれでいいと思います」


クリスのそれでいい、というのは、言い訳を用意しているだけなのかもしれない。
どっちに転んでもいいように。
だけど、僕はクリスが僕にそう言ってくれることを、何故かいつも期待してしまう。



甘やかすなよって、何度言っても、向こうがそれに全く気づいていないんだから、どうしようもないだろ。



「クリスは? お前だったらどうする? 領地や、爵位」
「私ですか? そうですねえ。とりあえずもらえるものはもらって、嫌になったら捨てる。嫌にならなければそのまま持ってる。ってところでしょうか」

あまりにわかりやすい答えを、クリスは即答した。
らしい返事に思わず噴出す。


「お前らしいな」
「そうですか?」
「今の返事はな。でも、何でさっきあんな無茶したんだ? お前、肉弾戦とか全然得意じゃないだろ?」
「ははは。得意どころか、底辺も極めれば平地、というくらいには下手です」
「それなのに、なんであんな無茶したんだよ」
「いいじゃないですか。怪我なかったんですから」
「よくない。お前、僕との約束覚えてるか? お前、絶対無茶しないって約束したよな」

約束。
その言葉が、えらく効果的だったらしい。
クリスが珍しく言葉につまり、居心地の悪そうな顔をしている。


「したよな」
「…しましたね。しなきゃよかった」
「何でだ?」

クリスは、苦虫を噛み潰したような顔で、渋々言った。



「ベルナドットさんを、侮辱したからです」







ほらきた。
こいつはいつだってそうだ。
いつだって、いつも、どんなときも、怒ってばかりで。


「だって、腹がたつじゃないですか! ただのやっかみ程度ならともかくとして、ベルナドットさんの家庭の事情までとやかく知らない人間に言われたくないですよ!  私がさえないとか、そんなことは事実だからどうでもいいとしても、事件のこととか、リークス公のことなんか、何も知らない人間が面と向かって言うことじゃ ないですよ! 叩くなら聞こえない場所での陰口くらいにしとけってんだ!」


すぐ怒る。
自分のことじゃなく、他人に対しての沸点が低い。



「………だから、決闘したのか」
「まあ、あれは初めから私が勝つってわかってましたから。ある意味デキレースです」
「え?」
「そりゃそうでしょう。騎士舎の中庭。人目もある。相手はれっきとした騎士と、ただの民間人。しかも一応女ですから、相手が自分の立場にかけて、 手荒な真似は出来ないってわかってましたし。おまけに、初めから私のこと馬鹿にしきってましたから」
そこへ、狙い済ましたクリスのカウンターパンチが決まった、ってことか…。
………あの場所に………。

「だからって…」
「いや、見事にクリーンヒットでした」
「思い返すなよ!」
「思い出させたのそっちじゃないですか。私はもういいって言ったのに…」


ちっともよくない。
結局これじゃ、また、あの時と同じじゃないか。



「でも、約束を破ったって事には変わりはないわけだ」
「そう…かもしれませんけど、これは突発的なことですし―」
「そうなると、約束破ったお前には、当然罰が必要になるよな」


クリスが、きょとんとして僕を見上げる。
まだ騒ぎの余韻が残る中庭を、玄関に向かうために通る。
クリスが倒した連中はいなかったが、他の騎士や兵士が面白そうに、並んで歩く僕たちを見ていた。


「お前は、僕との約束を破って、下手をすればまた怪我をするところだった。訓練用の剣だって、力を入れれば、打ち所が悪ければ、人は死ぬんだぞ。 それは反省しなきゃいけないことだろ?」
「………それは、まあ、そうですけども…。すいません。頭に血が上りまして」

嬉しいけど、悔しい。
とてつもなく嬉しいけど、やっぱり悔しい。
クリスが僕のために怒ってくれるのが、どうしようもなく嬉しい。
くそ。
どうして僕はこう、こいつにはいつもいつも先手を打たれてばかりなんだろう。


でも、今回は、後手であっても、きっと僕の勝ちだ。



「おい、ベルナドット、大したもんだな連れ合いは」
「お前ら結局一体どういう関係なんだよ?」

野次馬が、面白おかしく僕に声をかける。
またか、という顔のクリス。
僕は悠然と振り返り、




「僕の婚約者だ」




公衆の面前で、大勢の人の前で、騎士舎の中庭で、大声で宣言した。









「何ィー!?」
「何でお前が一番驚いてるんだよ!」
「驚きますよ! 驚くでしょう、普通!? というか一体何事ですか!? こっ、こ、こんな場所で何考えてんですか!?」
「嘘ついてるわけじゃないんだからいいだろ!?」
「嘘のほうがまだましですよ! 早くこの後に、ネタっぽいオチを考えてくださいよ!」
「おいおいマジかよ、ベルナドット!」
「早くも痴話喧嘩か? 見せ付けてくれんじゃねえの」
「どこが痴話喧嘩だ!」
「だからお前が怒るなよ!」
「ベルナドットさんこそ、顔真っ赤にして怒鳴るくらいなら、初めから照れるようなこと言わないでくださいよ! ………って、これ、これがもしかして 罰ですか!? 約束破った!」


騎士舎の中庭で、お互いに顔を真っ赤にして怒鳴りあう。
ギャラリーは増えるばかりで、おさまったばかりの喧騒が、さっきとは比べ物にならないくらい大きくなっている。
騎士長がこの様子も、窓から見下ろしているのであれば、話は早い。
結婚の了承をもらいに行く手間も省ける。



「や、やってくれましたね、ベルナドットさん…!」
「だから、呼び捨てにしろって、ずっと言ってるだろ!?」
「知らんわ!」




いつか。
僕がクリスに甘えるのではなく、クリスに甘えてもらう頃には、名前で呼んでくれるようになるんだろうか。
いつか、じゃなく、絶対にそうする。そうさせる。いつまでもさんづけで、いつまでも先手を打たれてちゃ、僕の男としての沽券に関わる。



そして、今度は絶対にクリスに約束を破らせない。
無茶をさせない。決闘だろうが、喧嘩だろうが、何であろうと。


あの時クリスに聞かれなかった僕の言葉。相手を殺すという気持ちは嘘じゃない。だけど本当にそんなことをしたら、きっとあいつは怒るだろう。
いや、あいつのことだから、僕がそんなことをしでかす前に、あの七日間のように、止めに入るのだろう。
自分を使って。


涙目になって、真っ赤になって僕に怒鳴るクリス。
僕は、



「そんなに怒鳴るなら、このまま横抱きにして、教会連れてくぞ!」




クラウドあたりが言いそうな、とてもじゃないけど、二度は言えない台詞を、クリス以上に真っ赤になって言い、そして実行した。






その後。
僕はクリスの名誉を傷つけた、あの気の毒な男とこっそり再戦し、あっさり勝利した。
だけどそれは、
『騎士の急所を蹴り上げた女』
という、クリスの不名誉なあだ名を消すことはできず、それ以降、クリスは二度と騎士舎には近づかなくなったのだった。