『Seven Days War』 創作 ダイアナ・オーガスト・大公 ネタバレ注意

「ダイアナ」

目の前の男は、そう少女を呼んだ。


ダイアナは思う。
大きな人だと。
大きな人は人を惹き付ける。小さな人を包み込むことができるから、その側にいると安心できるから、誰もがその足元に寄ってくる。
母もその一人ではないかと、少しだけ思っていた。
ただの気まぐれで出来た子供。いくら、証があったとしてもそれが認められなければ意味がない。
そんなものは知らないと、その一言だけで、父親はダイアナと赤の他人になることができる。
それでは、母が悲しすぎる。
ダイアナ自身は、目の前にいるこの公国の大公に何の思いも抱いていなかった。
寂しくなかったと言えば嘘になる。でも、会いたいと思ったことはあまりない。
自分が不遇であればそう思いもしたのだろうが、ダイアナはこれは幸いなことに、母親に大切に育てられた。
父親がいなくとも、二人で愛する何倍も自分を愛してくれた母親を、ダイアナは心から愛していた。
だから毎日幸せだった。父親がいないということが、他の家族とは違っていたとしても、他の家族と比べるべくもなく、ダイアナは自分が幸せであるということを知っていた。
母親は、穏やかに笑う人で、いつもいつもダイアナに、自分は望まれて生まれてきたのだと安心できる目線を向け、せがむと、引き出しの奥にしまわれている 小さな紫色の花を見せてくれた。

「桔梗というのよ」

花の名前を言う。
ダイアナがこの世で一番先に覚えた花だった。
母親の白い手に握られる、ガラスで出来た繊細な飾り細工。
公国の花であり、大公をあらわす紫色の由緒あるものだと知ったのは、随分後の話で、
「これはね、お父さんが生まれてくる貴方にくれたものなのよ」
ダイアナは、ただただそれが嬉しかった。
父親がいないことには何かの理由があるのだろう。
でも、今側にいなくても、父親はダイアナを疎んじたわけではない。
それどころか、生まれてくる我が子を祝福するために、こんな綺麗な花をくれたのだ。

父の話を誇らしげにする母親。
それを、嬉しそうに母親の膝の上で聞く子供。

二人は、間違えることなく幸せで、それは、ダイアナが十五歳の時、母親が病気で他界するまで、途切れることなく続いていた。



ダイアナが母親を病で失い、自分の生い立ちを知ったのはすべて偶然だったのだろう。
年端も行かない子供に、少しでも未来の希望を、と死に行くものが伝えた父の名は、ダイアナの未来を今までとは別の方向に導くことになる。
ゼクス公国。そこに君臨する大公が自分の父親。
硝子細工の桔梗は、その証。
父親が父親の証として残した、たった一つのもの。
震える手でそれを受け取ったダイアナを見て、病床の母親は穏やかに笑った。


「何も心配いらないわ。言ったでしょう、この花はね、貴方にお父さんがくれたものなのだから」


ダイアナはその言葉を胸に旅立つことになる。
母が父親の思い出が残る街に住み、帰ることのなかった故郷を見に。
そして、父親が住む故郷ゼクスに向かうことを決め、花だけを頼りに家を出た。
何も知らないと言われたらどうしよう。否定されたら。それ以前に、自分が生まれたことを知らなかったら。十五年前のことをすべて忘れてしまっていたら。
不安と決意を抱えて、ダイアナはアインスで乗り換えの馬車に乗る。
聞けば、母親の故郷であるツヴァイを通るのだという。そこで故郷を見て、またゼクスに向かえばちょうどいい。
立派でもなければ、新しくもない、ごく普通の辻馬車には、自分より年上だろうと思われる、茶色の髪の毛を一つに結わえた女が、正面に座っていた。
旅姿とは思えないくらい軽装の女は、自分もツヴァイに向かう途中なのだと言い、ダイアナの笑顔を受けて、困ったように、照れたように、 小さく笑って答えた。











男は、街で坂を大荷物を担いで昇ろうとしている女に出会った。
周囲を見渡すが、特別その荷物を引き受けてやろうという人間はいないらしい。
特別何の感慨も示さず、背後から、
「持ってやろうか?」
と、なるべく気さくな声をかけた。
かけられた女は、声に振り向き、かけた男が騎士の正装をしているのを確認し、驚きの表情を向ける。
「この坂、大変だろ?」
「ですが…」
「遠慮なんてやめとけよ。あんたより、俺のほうが力も体力もあるし、見ての通り騎士様だ。おかしな真似をしないってことは、折り紙つきだ」
男の軽い口調に女は笑い、男はそれが返事だといわんばかりに、ひょいと、女が抱えていた荷物を受け取った。
「結構重いな。何が入ってるんだ?」
「古着や、洗いざらした布です。これから必要になるので、譲ってくださったのです」
二人で並んで坂を歩く。
男はそのとき初めて、女が身重であることを見て取った。
「へえ、それはめでたいな」
「ありがとうございます」
「男の俺にはわからないが、身体大変なんだろう? 無理せずに、誰かに頼んでも良かったんじゃないのか?」
「そう言って下さる方もいらっしゃったんですけど、やっぱり自分のことですし、それに、これから生まれ来る赤ちゃんのためだと思うと、 どんなことでも楽しく思えてくるんです」

女は自分の腹を撫でながら、穏やかに笑う。
誰が見ても、幸福以外思えない笑いで。
「そうか。生まれてくる子供は幸せ者だな」
男も笑う。
ただ男の笑いは何処か自虐的な雰囲気があった。



望まれて生まれてくる子供。
望まれず生まれてきた子供。
父親に可愛がられず、母親は既にいない。
他の誰も可愛がらないから、自分が可愛がるしかない。
そして、これがあまりに滑稽なほどに、男はその子供が可愛くて可愛くてどうしようもなかったのだ。



「騎士様?」
「いいなあ。可愛いだろうな、子供って。名前はもう決めてあるのか?」
まだ幼さの残る、若い騎士が相貌をくずして言う。
「いいえ、まだなんです。中々決めかねてて…」
「そりゃそうだよな。子供の一生を左右するもんだし。そう簡単には決められないか」
「あれこれ考えると、止まらなくて」
「考える間も、幸せだな」
「ええ」
穏やかな会話は、坂を上りきるまで続いた。
「ついでだ。家まで持っていってやるよ」
女は騎士の言葉に甘え、自宅前までの案内をしようと思った矢先、突然感じる痛みに、膝をつく。
「ど、どうした?」
「あ…。へ、平気です。陣痛みたい…で…」
「なっ、何だと!?」
うずくまる女に、男が真っ青になって狼狽する。
「い、医者! 医者! おい、誰か医者を呼んでくれ!」
「あ、あの…。産婆さんが…」
「家は何処だ!? い、いや、病院に連れて行くほうが確実か!?」
「で、ですから、あの…」
「辛いか!? クソ、こんなときどうすりゃいいのか、何で教えておかないんだ、騎士舎で…!」
「お、落ち着いてください。陣痛が始まってもすぐには生まれないんですよ…!」




大騒ぎする男に、騒ぐ男に対して妙に冷静になってしまった女。


男は結局騒ぐだけ騒いで役に立たず、女は近所の人間に抱えられ、自宅に戻り、産婆が呼ばれ無事に女の子を出産したのだった。







「生まれたか!?」
「ああ、本当にうるさいねあんたは! ばたばたと走り回るだけで、役にたちゃしない!」
「生まれたんだな!? 無事か!? 母親は!?」
「どっちも元気だよ! 邪魔だからあっち行ってておくれ!」
「よっしゃ! 顔を見たい!」
「あんた馬鹿かね!? 出産終わって疲れきってる母親を、そっとしておいてやろうっていう気くらい回らないのかね!?」
「だって!」
「何がだってだ! いい大人のクセに!」
「俺はもう、今夜この街を離れて、ゼクスに帰らなくちゃいけないんだよ! そうしたらもう二度とこの街には来られないかもしれないんだ」
「だからなんだね! アンタ別に、あの子の父親じゃないんだろ!?」
「父親じゃないけど、荷物を持ったよしみで何とかならないか!?」
「どんなよしみさね! 黙らっしゃい!」


扉の向こうで繰り広げられる、産婆と騎士の男の言い争いを聞いて、結局出産したばかりの女が仲裁に入り、男は何とか生まれたばかりの赤ちゃんと 対面することを許された。


「真っ赤だな」
「だから、赤ちゃんって言うんでしょうね」
母親の腕の中に抱きかかえられている、小さくて真っ赤な人間を見て、男は恐る恐る近づく。
「可愛いなあ」
「そうですね、本当に」
緩みっぱなしの男の顔を見て、女が、
「抱いてみますか?」
と尋ねると、男は仰天して怒鳴った。
「えっ!? 俺が!?」
「ええ。よろしかったら」
「え、いや、いいのか?」
「荷物を持っていただいたよしみがありますから。どうぞ」
「そ、それじゃあ…」
そっと、と言うよりはおっかなびっくりで、男は両手を伸ばす。
片手で大剣を振り回すことのできる腕の中に、まるで、触れれば壊れてしまう宝物のように、赤ちゃんはそっと抱かれた。
「な、泣いたらすぐに返すからな」
「ええ」
「ちっちゃいなあ…。軽いし。柔らかいし、ふにゃふにゃしてるし」
「ほんとですね」
「…可愛いなあ。男の子か? 女の子か?」
「女の子です」
「だからこんなに可愛いのか。ほら。まつげも長いし、目もぱっちりしてて大きいし、唇も可愛いし、将来絶対美人になるな!」

目を瞑ったまま眠っている女の赤ちゃんを抱えて、男は断言する。我が子のように喜ぶ騎士の姿を見て、母親になった女も苦笑した。

「赤ちゃんって、可愛いんだな。きっと俺の弟もこんなに可愛かったんだろうな」
「弟さん?」
「ああ。俺は生まれたとき側にいてやれなくてな…。生まれてからもずっと、離れて暮らすことが多かったんだ。惜しかったな…。 こんなに可愛いのなら、もっと早くに、抱っこしてやればよかった」

明るい男の顔が、僅かに曇る。
赤ちゃんを見る目が、あまりに優しくて、女は何故か不安になった。

「ちゃんと、元気に育つんだぞ。お母さんを心配させないようにな」
男がそう言って、赤ちゃんに顔を寄せる。赤ちゃんの左手が反射で動き、男の顔に、羽よりも軽い衝撃を与えた。
「まあ」
「元気な赤ちゃんだな。これはおてんばに育つぞ」
男はそう言って、女の腕に赤ちゃんを返した。
ぐずることもなく、母親の腕の中に抱かれる女の子を見て、
「どうせなら、うんと元気に育つといいな! 勇ましい女神、ダイアナのように。そうなったら俺の弟に活でも入れに来てやってくれ」
「弟さんも、ゼクスにお住まいなのですか」
「ああ。いい子なんだけどちょっと元気が足りなくてな。ああいう奴は、元気な女の子に振り回されるくらいがちょうどいい。 大きくなったら、お嫁さんに来てくれるか?」
「まあ。気が早い」
「ははは」

うっすらと瞳を開けた赤ちゃんに、男は笑いかける。

「俺の弟と、同じ瞳の色だな」
「弟さんが、お好きなのですね」
「ああ。俺のたった一人の弟だからな。俺が、守ってやらないとな」

騎士はそう言って立ち上がった。
「物騒なものを持ち込んで悪かったな」
壁に立てかけてあった長剣を持ち、腰にさす。
若く、みずみずしい顔立ちに、今まで欠片も見ることの出来なかった表情が見て取れる。
「お帰りになるのですか」
「ああ。この街の巡回任務は今夜で終了だ。最後に、こんな嬉しいことを体験させてもらえて、感謝している」
「どうぞ、またいらしてください」
「ああ」
「………大公様を」
「ん?」
「大公様を、よろしくお願いします」

女は赤ちゃんを抱えたまま、頭を下げた。

「よせよ。母親がそんなに簡単に頭を下げるもんじゃない。もっと堂々としてろ。この世で一番強いのは、あんたみたいに強くて綺麗な母親なんだから」

男はそう言って、部屋を出て行った。
「ダイアナ………」
残された女は男が残した言葉をつぶやく。
それは、満月の晩に起こった、僅かな偶然だった。





大公は、思い出していた。
それはもう、十五年前の話。
自分の息子が連れてきた、自分の娘の姿を前に、彼の心は十五年前に飛んだ。
初めて会ったはずなのに、初めてのような気がしない。
何処かで出会ったような、知っていたような気がする。
それは一体何処でだったか。そして、生まれたことも知らなかったこの子供のことを、どうして知っていたのだろう。
真っ赤な髪に、緑の瞳。
目の前の少女は、紫の硝子細工を握り締め、不安そうな面持ちで立っている。

そう、自分はこの少女を知っている。
この髪の色と、瞳の色を知っている。
この娘が生まれた晩に、満月が出ていたことも知っている。



そう、あいつはこう言ったのだ。



「可愛い子だったんだ。髪は真っ赤で、瞳は緑で、本当に可愛い女の子だった。空には満月が出ていて、その場にいた総てが、女の子が生まれたことを 祝福していた」

地方の街から帰ってきた男に、新たにフィーア行きの命令を出したとき、あまりに、男がにやにやと笑っているので、 気まぐれに声をかけたときに返ってきた言葉。

「俺の顔を殴ったんだぜ? 生まれたばかりだっていうのに。元気に関しては折り紙つきだな。おまけに、すげえ美人になるぞ。 母親も凄く綺麗な人でな。俺はあんなに綺麗な母娘は見たことがない」

最強の騎士と呼ばれ、最年少で選ばれた男は、ただ嬉しそうに笑っていた。

「子供って、可愛いんだな。可愛くて俺たちじゃ太刀打ちできないほど強い。俺はあの女の子が、月の女神ダイアナの化身だと言われても、 きっと信じたね」

騎士に似つかわしくない言葉に、姿。
すべての人間を愛するような、度量の大きい男は、即位したばかりの大公が出した命令を、あっさりと受け入れた。
口では面倒だと言いながら、絶対に手を抜くことのない男は、誕生の喜びの思い出を抱いたまま、人を殺す任務につく。


「もう一度、機会があれば会えるといいな。あの子、将来きっと、幸せになる」


それが、大公の聞いた男の最後の言葉だった。


任務に赴いた最強の騎士は、信じられないくらいあっさりと、訪れた街で殺された。
男の死体を回収し、その死体にすがって泣く子供たち。
男が愛した弟。
大公の息子たち。





他人の幸せを断言した男が、冷たい体になって首都に戻ったとき、大公は自ら馬を率いて、殺した人間を皆殺しにした。




「………ダイアナ………?」



大公が、少女の名前を呼んだ。
「え?」
少女も、その脇に控えていた大公の息子も、驚きを隠せず、目の前の玉座に座る男を見ている。
誰もまだ、名前を教えていないはずなのに、どうしてこの男は、少女の名前を言い当てたのだろう。


「あの…」
「お前は、ダイアナか」
「は、はい。でも、どうして…?」

少女は、不思議で仕方がない、と言わんばかりに、緑の目をこぼれそうなくらい大きくする。



十五年前、男が言った。
勇ましく、月の女神と言われても俺は信じた、と。

その言葉の通り、少女はたった一人でゼクスまで赴き、王位継承に関わる争いに巻き込まれ、それでも、逃げることなくたどり着いた。

あの子は、将来幸せになる、と。
なれるのではなく、なると男は言った。



他人が生まれたことを我がことのように喜んで。




「なるほど、同じだな」
「え?」



十五年より、僅かに前。
自分が愛した女も、意思の強い目をしていた。
共に行こう、という大公の言葉を受け止めて、
「私は、幸せになります。だから、貴方とは一緒に行きません」
男と共に生きることを自分の幸せとしなかった女は、誇らしげに笑ってそう言った。



「あいつと、同じ色をしている」



美しい緑色の目。
覚えていなくとも、そのとき見えていなかったとしても、少女が生まれたことを祝福した茶色の目が、確かにそこには映っていた。
祝福した男はもういない。
少女を生んだ母親ももういない。
けれど、生まれたことを知らず、祝福することをしなかった男が残っている。





「ダイアナ」
「は、はい」
「―お前に、話したいことがたくさんある」





どれだけお前の誕生で、救われた人間がいたか。




「私も、貴方に話したいことがたくさんあります」



この七日間、貴方に会うために揺られた馬車で起こった出来事。
巻き込まれた事件。
そこで出会った人たち。三人の騎士と、自分の兄。
そして、何処かで見たような、懐かしい瞳の色と髪の色をした女性のことを。



十五年前に出会った偶然は、長い長い年月を経て、月の女神の加護を受け、少女と父親の未来を幸福なものに変えて消えていった。