『Seven Days War』 創作 エリック ネタバレ注意


クリスは拒否した。


「帰れ出ていけ二度と来るな」
「そんなに俺に会えて嬉しいか」
「出ていかなければ人を呼びます」
「呼んだところで無駄だろう。俺は大公になる男だぞ」
「まだ大公じゃないでしょう。自分の立場を利用するのは結構ですが、だったら尚更こんな田舎街で騒ぎを起こしてただですむと思っているんですか」


クリスは俺の唇を噛んで、俺との間に距離を置くことに成功していた。
一回目のキスは驚きが先に立ったのか、女の腕力に訴えるだけだったが、二回目にはがっつり報復をしてくるのが、こいつらしい。
堅く閉ざされていた唇が開いたかと思ったら、突然の痛み。

「…ッ」

俺が一瞬ひるんだすきに、クリスの足蹴りがすねに入り、緩んだ手を振りきって、クリスは奥のカウンターに飛び込んだ。




「出ていけ!」
「逃げるなら方向が違うんじゃないのか?」
てっきり出入り口にでも逃げるのかと思ったが、クリスはカウンターを挟んで俺を睨んでいる。
「私はここで仕事をしてるんですよ。逃げるわけにはいかないでしょう」
「見上げた忠誠心だな」
「違います。責任感です。忠誠なんて生まれてこの方持ったことないです」
「じゃあ俺に初めて仕えるわけだ」
「いますぐ私が出ていきますからそこをどいてください」
「責任はどこいった」
「自分の人生かかってるのにそんなこと言ってられるかあ!」



大声で怒鳴るが通りかかる人間がいないのか、喧噪に驚いて入ってこられないのか、古本屋には相変わらず俺とクリス以外の存在はいない。
まるでそのために生まれたかのように、本と共に静寂に包まれていたクリスの口から、怒鳴り声が絶え間なく生まれてくるのはおかしな光景だったが、 元々俺が二年前に出会ったクリスはこちら側だったな。



怒鳴るというより、強い言い方で俺の前に現れた。


一方的な約束以外何もせず、再会しても何も起こらなかった。
騎士たちはそれぞれの選択をし、巻き込まれた人間は岐路に立ち、俺はこいつを見送った。
クリスはまるで自分の人生に何事も起こらなかったように、ただ帰ったのだという。
一切の保証を拒否し、別れの挨拶をして一人だけ別方向に立ち去った。
あまりにそれが揺るぎなく、淀みなく行われたため、騎士たち全員がこいつに事件を秘密にしろと言うのを忘れた。
だが、俺に対する報告は口をそろえて同じだった。


「あの人は、他言するような真似は決してしないでしょう」


事実、三日しか共にいなかった騎士たちが、初めて出会った女に対して寄せる信頼。
俺が会ったのはほんの一瞬。教会で俺を害そうとする人間をとらえたその瞬間だけ。
捕まえた足で、すぐさまゼクスに旅立ったのは、この女を巻き込みたくなかったのだと、俺以外の全員が思ったのだろう。



結局女は何も知らずに立ち去った。
『宣誓』の正体も知ることなく。誰が持っているのかも判明しないままで。元凶である俺とも口をきかなかった。
知りたいと思わなかったのか、知るよりも別のことを優先したのかは、俺にはわからない。
ただこいつは、二年前に出会っていたはずの俺に全く気づかず、憐憫の情も、憤怒の感情も俺に見せることはなかった。


俺は覚えている。二年前、こいつが俺に何をしたか。
忘れられないのではなく、俺は自分でこいつを忘れないと誓った。
相手が覚えていないのであれば、思い出させるために、『預かり物』を俺の手に返すために。
公国を継ぐために必要な『宣誓』。
俺はそれを、ただの歌として見知らぬ少女に送り、いつかたどり着く日のために、俺に怒鳴った女に贈った。




「…確認しておきたいんですけど」
「何だ?」
睨んでばかりのクリスが、自分から俺に尋ねる。
「貴方、変態なんですか」
「三回目が欲しいか」
「やっぱり変態か!」
「俺の何処が変態だ」
「どこもかしこもですよ! いきなりやってきてゼクスに連れて行くって言うわ、キスをするわ、『宣誓』をお気軽に扱うわで、一体人を何だと 思ってるんですか!? 非常識にもほどがありますよ!」
「常識ならある。俺の中にはな」
「そっちだけにしか通用しない常識を非常識って言うんですよ! 貴方の頭がおかしいのは勝手ですけど、他所でやってください、他所で!」
「そう照れるな」
「私の人生に関わってこないなら、何処で何をしていても止めませんから、見えないところでやってください!」
「どうしてそうもムキになるか。女は素直なほうが可愛いと言うぞ」
「貴方に可愛がられて嬉しいと思う方だけ可愛がってください。私はごめんです!」
「俺は可愛いだけの女には興味ない」
「私は貴方の存在全部に興味がないですよ!」


このままだと半永久的に怒鳴りあいだな。
それはそれで面白いが、そのうちに割り切りのいいこいつが、人生を割り切ってしまいそうな気もする。
クリスが、自分自身を落ち着けようとしたのか、大きく深呼吸して言った。


「あのですね。貴方は自分はおかしいと思っていないかもしれないですけど、もう末期的におかしいです。人をいきなりさらおうとして、それに有無も言わせず、 しかもいけないことだとわかっていない時点で、貴方はただの怖い人です」
「お前、俺が恐ろしいのか」
「怖くない人、いるんですか。盗賊に襲われたときの比じゃないです」
「俺はお前を傷つけたり、殺したりはしていないぞ」
「それを平気でしかねない、常識のない人間だということが怖いんです。怖いというか、危ないです。私は貴方に関わりたくない。だから、 このまま帰ってください。お願いします」
「二年前、俺を怒鳴りつけた女と同じ台詞とは思えんな」
「あの時もこんな人だってわかってたら、話したりしませんでした」
「なるほど。じゃあこれはお前が好きな責任というやつじゃないのか」
「は?」

「二年前、お前は俺と出会った。それは偶然かもしれない。会話をしたのも。だが、そこでお前は俺の気をひいた。それが意識的だろうが、無意識だったかは 関係ない。お前には俺を惚れさせた責任があるんじゃないのか?」

「…ただの一目惚れで追いかけてきたのなら、こちらも常識的な態度で接します。………いや、まあそういうありえない仮定はおいておいてですね。 そうじゃなくて、その後の貴方が今行っている行動が問題なんですよ」
実際俺がそうして二年間待ち続けたのを知ってて、こいつは平気でこういうことを言う。
「仕方がないな…。わかった」
「わかってもらえましたか」
「とりあえず、お前に考える時間をやろう。俺とゼクスに行く間に決めろ」
「ちっともわかってねえ!」
「俺の最大限の譲歩だぞ? これ以上は望めないな」
「今すぐじゃあ結論出してあげますよ! 私は! 貴方とは! 一緒に! 行かない! し! 貴方の! ことなんか! 好きでもなんでもない!」
「嫌いで始まる恋愛が一番強いとも言うぞ」
「もっと嫌いとか、死ぬほど嫌いとか、地獄のように嫌いって言葉もありますよ!」
「素直に俺と一緒に来たほうがいいと思うがな…。結局お前には、いずれ公国から使者が来るだろう」
「………何ですって?」


クリスはそこで初めて、泡を飛ばしていた口を静かに結んだ。
怒鳴っている顔もいいが、こうして冷静に物事を見極めようとする顔は、あの時と変わらずそそられる。


「お前は、知ってしまったからだ。公国の継承に関わる、『宣誓』の存在を」
「………………」
「実際の文面を知ったのは、今この瞬間だが、それは問題ではない。公国が世襲制ではないことは、特に隠していたわけではないが、それでも、 大公の退位や、即位に関しての『基準』は秘密だった。ここまではいいな?」
「………諸外国、及び内部では、世襲制ではないということだけ知らされており、実際の大公の選定に関しての情報はもたらされていなかった。 それはつまり、当事者以外に、大公選定に関しての明確な権力が与えられていないことになる」
「その通り。さすがに話が早い。それゆえに、公国の権力は常に一点に集中していた。大公だけが絶対であり、他のどんな有力貴族もそれに 手出しができない。唯一の例外が大公を認める最高神官だが、あれは完全に政治とは離別した独立集合体だ。実際の選定には一切口を出せない。 あいつはただ、認めるだけだ。まあ、あまりに怪しければ、現大公を引っ張り出してきて、確認をすることはあるかもしれないが、基本的には、 拒否する権利は与えられていない」
「実際に『宣誓』の『中身』も大切だが、大公の座を狙う人間にとっては、大公がどのように選ばれるかを知ることも同じように大切である、と。 知ってさえしまえば、『認めることしか出来ない』最高神官を抱きこんで、『偽りの宣誓』をでっちあげることもできる」
「大公になりたい奴にとって問題なのは、大公になるための『手段』だ。無論、『宣誓』の内容を知ることが出来れば、それが一番 確実ではあるが、そうでない場合は、その『手段』を知れば最低限、クーデターを起こす要因にはなる」
「………喉から手が出るほど欲しい人間がいる、その『手段』を私は知ってしまった。しかもただ知っただけではなく、その様子が 公式に残ってしまった」
「その通り。フレデリックを裁く裁判によってな」



フレデリック。


俺の双子の弟がしでかしたクーデターは失敗に終わった。
俺を殺し、『宣誓』を奪う。それ自体が失敗したのはいい。だが、それによって、この男を公式に裁判にかけるために残った記録に、 はっきりと大公選出の記録が残されてしまった。



「……でも、それは必要なものでした。フレデリックは…秘密裏に片付けるわけにはいかないでしょう。あのまま、開放しても」
「そう。奴は何度でも同じ事を繰り返しただろうな。また、誰かに利用されつくして終わっただろう。あいつに利用価値がない、と、公にわからせる 必要があったのは事実だ」
「その結果…。私が公式記録では唯一、使える人間として残ってしまった」
「騎士たち三人は論外だ。あの三人を利用しようと思う奴はそういないし、あいつらそのものが大公になりたがるのであれば、それはそれで別に構わないだろう」
「構わないんですか?」

クリスが驚いた顔で俺を見る。

「構わないだろう。有能な奴らだ。俺には劣るがな」
「………そうですか」

総てを悟ったように、無表情に返事をしてきた。

「ダイアナは、既に大公の庇護を受けているからな。どうにも利用できるわけがないだろう」
「………貴方より神経太そうな方に守られているなら、大丈夫でしょう」
「俺は先触れだ。このままここにいたら、裁判記録を入手した連中が、お前を探しにここに来るかもしれない」
「私は何も知らない、関係ないと言っても無駄でしょうね」
「だろうな。そんな言い訳で通じる相手なら、わざわざここまでやってきたりしないだろう。だから俺が来た」
「何のために?」



何のためにだと?
これが本当の理由だと、ちっとも信じていない顔でクリスが尋ねる。
けれど、俺がこいつを好きだということも、同じようにまるで信じていない。
俺が語った継承に関わる事実、起こりうる出来事を予測して理解することは瞬時にできても、俺の気持ちを真っ向から否定して、俺が純粋な俺の感情だけで この場所に来たことを全部なかったことにして。


ただ、お前を、俺のものにしたいだけだ。


そう言ったらお前はきっと、殺される未来が待っていたとしても、この場所に残るのだろうな。




「使者として。お前は俺と一緒にゼクスに来い。そして大公の庇護を受けろ。俺がその間にくだらない考えを持つ連中の芽を摘み取る」
「大公の庇護を?」
「そうだ」
「………………………」

無言でこいつは一体何を考えているのか。
少し俺の顔から横を向いた視線には、特別何も映ってはいない。

結局、俺が譲歩しただけか。

たださらうのではなく、俺の欲望のままにさらうのではなく、こいつが納得しそうな理由をお膳立てて。
滑稽だな。
俺がこいつに、ここまで骨抜きになっていることが、一番おかしくてたまらない。











「わかりました」

三人の騎士たちが、たぶん何度も聞いたのだろう、静かな声でクリスは言った。

「ほう。すべての元凶はお前だ、とでも叫ぶのかと思っていたが」
「………貴方は」
「何だ?」
「いいえ、なんでも。よくわかりました」

勝手に納得し、勝手に話を進める。

「とりあえず、店主に一言声だけかけてきます。このままいなくなったら失踪ですから。適当に理由をつけておきます」
「適当に、か? お前が嫌いそうな言葉だな」
「嫌いじゃありませんよ。私は、適当に一生懸命になれますから」



クリスの言い訳に、心配はいらないだろう。
あいつはこの前の事件も、二年前に俺と出会ったことも、きっと誰にも告げていない。
沈黙することに慣れている人間は、言い訳をすることにも慣れている。
完結に理由を説明することで、人を遠ざけ自分の沈黙を長く保つことができるからだ。
俺は二年前に出会った、よくしゃべるクリスしか知らない。
だがそんな姿、こいつがこの街で生きてきた十年間では、きっと稀なことだったのだろう。
誰かを非難したり、誰かを否定したり。それに対して逃げない人間ではあるが、日がな一日古本屋で働き、そして終わる生活をしていれば、 誰とも口をきかない日もあるのではないか。



俺に背を向けて去っていくクリスの後姿は、降り積もった十年間が見えるように静かだった。
逃げるのではなく、また、立ち向かうことを選んだクリスは、閉店時間を告げるかのように、同じ口調で店主に何事かを言うのだろう。

無理をしている姿。出て行きたくないのに出て行かねばならない選択。



わかった、とあいつは言った。



何がわかったのか俺にはわからない。
俺から逃げられないことか、それとも、公国から逃げられないことか。


そして俺は、俺の思い通りにゼクスへ向かおうとしているこいつの姿を見て、何故こんなにも腹立たしい。









「お待たせしました。行きましょう」
「もういいのか?」
「準備も何もありませんから。長期滞在になるのだったら、着替えなんて少ない枚数持って行くだけ無駄でしょう」

店番をしていたときにつけていた、エプロンだけ外した姿で、クリスが奥から戻ってきた。全くの軽装で、手に荷物すら持っていない。

「荷物を持ってくる時間くらいやるぞ」
「…じゃあ、少しだけ待っててください。二階に行って取ってきます」
「二階がお前の部屋なのか」
「ええ。間借りしてるんです」
「どんな部屋だ?」

俺がにやりと笑うと、



「私の部屋です」



クリスは振り向かずに言い捨てて去っていった。





絶対的な拒絶。
それは今までにもあった。二年前にはなく、事件のときに見え隠れし、今では完全に姿を現しクリスが身にまとっているもの。
ただ、それ以外。
俺が感じた腹立たしさ。
あいつは、打てば響くような返事すらもうしない。



クリスは、決めたのだ。



騎士たちと過ごした三日間。
何も追求せずに去った最後の日。
仕方がないと諦めて、その後に待っているものを選択した。
けれど、その選択すらもうないのだと、クリスはどうやら、自分でもう諦めたらしい。
諦めることを、決めたのだ。
誰かに流されるのではなく、自分でそう決めて、あいつは俺の前に立った。


茶色の瞳。茶色の髪。化粧一つしていない顔は、俺の目にかかった眼鏡ごしに俺を見上げる。
その姿は変わらなくとも、その中の意思は変わらなくとも、いつでもこいつは、誰の手も借りずに選択してしまう。


俺はそれがどうしようもなく腹立たしく、選択ごと俺のものにしたくてたまらなかった。











「行くんじゃないんですか?」
黙った俺の前で、クリスが言う。
絶対な力を持って選んだ選択すら、既に過去のように、そ知らぬ顔で。


「おい」
「何ですか?」
「俺は先触れでなくとも、お前に会いに来た」
「………だからなんですか?」

言い訳めいたことを思わず口走る俺がおかしい。

「癪だからな。俺がただ、大公の言いなりになって、お前の元に来たと思われでもしたら」
「………変態の行動で、そんなものは既に立証済みですよ。ただの使者にしては、非常識すぎます」


皮肉めいた受け答えを聞き、俺は何故か気を落ち着かせて、古本屋の扉をくぐった。
入ってきたときは一人で。出て行くときは隣にクリスをおいて。
扉を閉めると、きしんだ音と、錆びた鈴の音がした。

「………………」

クリスは十年間住んできた家と、仕事場を、一度も振り返らず、悲しい顔一つ見せずに、俺の横に立っている。




あの時。
盗賊に襲われ、命がけで、御者とダイアナを守ろうとした姿を見た、三人の騎士ならきっと気づいたのだろう。
静かに前だけを見ているクリスが、一体何を選択し、何を決意したのか。
だが俺は騎士ではなく、自分が出した命令についていくわけにも行かず、初めに出会ったのが俺であっても、クリスの様々な表情を先に見られてしまっていた。

今思えば、俺は、うかれていたんだろう。


ただ、こいつにまた会えて、そして話が出来たことに。
クリスを俺のものにしたい。こいつは俺のものだ。
では、具体的にどうすれば俺のものになるのか。そんなことばかり考え、俺はクリスのあまりに早い決断に気づくことは、最後までなかったのだ。









ゼクスまでの旅は、盗賊に襲われた時とは違い、平穏そのものだった。
貸しきった馬車は辻馬車だったが、俺たちのほかに当然乗客はいない。
御者もしゃべり好きな人間ではなかったし、俺も特別話題があるわけでもない。
赤の他人との沈黙に一番耐えられなさそうなクリスも、全く口を開かなかった。


無言のこいつと対面で座っている、というのもおかしな気分だ。
とにかくよくしゃべる、よく怒る、よくつっかかる、という勢いだけで生きているのかと思ったが、俺が古本屋で想像したこいつの十年間も、 あながち間違いではないらしい。
馬車に揺られて静かに座っているクリスは、無表情で何処を見ているのかまったくわからない。
組んでいる足を組み替えたり、髪をかきあげたりという無意識な動作はあっても、意識的に何かしようというつもりはないらしい。
たまに目を瞑るから、眠ったのかと思えば、唐突に目を開けたりもする。
俺は、俺が今までに見たことがないクリスの表情を見ているだけで、充分楽しめたが、こんな気まずいとも取れる沈黙に、耐えられるタイプの奴だとは 思っていなかった。



もうじき、フィーアに着くという頃になり、馬が少し疲れたようだと、御者が馬車を止めた。
夕暮れは過ぎ、夜の帳が下りる間際。
紺色でもなく、ただ灰色に染まる空を見て、俺は身体を伸ばすために馬車の外に出た。
背後にちらりと視線をやると、クリスが馬車の中で首を回している。
「おい」
「何です?」
別に俺を無視したいわけではないらしい。
俺の言葉に、クリスは振り向いた。
「少し身体でも伸ばせ。もうじきフィーアに着くが」
「そうですね」
特別反対もせず、クリスは馬車の降り口に近寄ってきた。
「つかまれ」
意識せず俺が、二十五年間生きてきた世界での風習を体現し、手を出す。
「結構です」
クリスは俺の手を素通りして、馬車から飛び降りた。
「後悔するなよ」
「何に対してですか」



俺から少し離れた場所まで歩き、俺に背を向けて深呼吸している。
明けの明星がうっすらと見える。空と空の境界線でも出来たかのように、オレンジと灰色と紺色が重なるようにして地平線に広がっている。
こうしてただ景色を眺めていると、この公国で起こっている事件がまるで嘘のようだ。
何処の世界に、俺と、クリスが共に関わっている事件が、国家の一大事だとわかる人間がいるだろう。


「………ッ」
急に冷たい外気を吸い込んだせいか、僅かに咳き込む。
何回かで咳がおさまったころ、近くで動く熱があった。


「………大丈夫ですか?」


こんなふうにされると、思う。
こいつは、本当に何処にでもいる当たり前の人間なんだ。
俺のように、歪んでいるわけでもない。達観しているわけでもない。他人と全く違う生き方をしている俺の親父のようでもでもない。
嫌いな人間でも、咳をしていたら声をかけてしまう。
恩を売りたいとか、そんな意識は欠片もないだろう。そんな意識があるのなら、もっと俺に上手く話をあわせるはずだ。
自分の意思を貫いて、俺を嫌い、自分の意思を同じように意識せず行って、嫌いな俺の身を案じる。
そうせずにはいられないのだ。
ただ真っ直ぐに生きているから。


「俺の身が心配か?」
「今この瞬間に心配じゃなくなりました」
「俺は騎士じゃないが、騎士くらいの実力も体力もあるつもりだ」
「騎士………」
「俺は大公筋だから、騎士になることはできないがな」
「騎士になれなくても、他の何かにはなれるでしょう」
「他の?」
「………………」

クリスは、そのとき、アインスを旅立ってから初めて、俺に向かって何か言おうとして、やめた。

「何だ?」
「何でも」
その後の返事は、俺に何の答えも寄越さずに、ただ消えた。



先を急ぐために、フィーアルートを通ったが、これといって危険なこともなく旅は進み、フィーアでは決まった宿に泊まった。

「添い寝でもしてやろうか?」
「………先に言っておきますけどね」
クリスはため息をつきながら言った。
「私、別に自分のことを安売りするわけじゃありませんけど、特別高級とも、後生大事に守りたいと思っているわけでもないので、 貴方がどうこうしたとしても、私の中で貴方に対する感情は全く変わりませんよ」

ご勝手に、と言う返事とともに、クリスはさっさと自分の部屋に引っ込んでしまった。



あいつの肌がどんな熱さか。
どんな弾力なのか。丸みを帯びているのか。
追い詰めたとき、どんな声を上げるのか。

目にするすべて、触れるものすべて俺のものだ。だから、慌てることもない。



それがただの言い訳だと知ったのは、ゼクスにたどり着き、馬車から降りて城門をくぐったときだった。









最後に来て天気が崩れ、雨の中俺とクリスは並んで街の中央に立つ。
そこから四方に道が分岐している作りになっており、それぞれの突き当りには公共の機関があった。

「ここがゼクスの街の中央ですか」
「ああ。ここで分岐し、宮殿に向かう」
「では、ここでお別れですね」




クリスと俺は、雨の中、ひさしのついた街の中央にある噴水の中に立っていた。
すぐにやむだろうと、通り雨だと判断し、そこでしばらく時間を過ごしてから、宮殿に向かうつもりだったのだ。
俺がクリスを連れ、宮殿の門を内側にくぐり、そして、俺は。



「私は、貴方と一緒には行きません」
「何だと?」
「私は一人で行きます」
「何処へだ」
「宮殿へ。行って大公に庇護を求めます」
「俺とでは不満か?」

一方的な質問の繰り返し。
いらだつ俺の前で、クリスは怒りを増徴させるかのように冷静だった。

「貴方が説明したことが、真実であろうが、偽りであろうが、私には関係ありません。私は、貴方と共に生きないために、ゼクスに来たのです」
「俺から逃げられると思っているのか?」
「少なくとも、今は。今、貴方は大公でもなんでもない。権力も微々たる物です」
「いずれ俺が大公になるのだから、同じことだろう」
「同じでも。それでも私はなるべく残された時間の多くを、貴方と生きないことに決めました」

雨の音が強くなった。
通り雨だろうという俺の予想ははずれ、雨は際限なく勢いを増している。
怒った顔。笑った顔。無言の表情。俺はクリスの顔を間近で見てきた。
月日の長さが問題なのではない。
俺が、そう、決めたからだ。



お前と生きることを。だから、俺は、そのためにゼクスにお前を連れてきた。




「………初めは、ただの性格が曲がった貴族なのだと思っていました」


訥々とクリスは二年前を語りだした。




「私は平民で貴族ではありません。だから、貴方の立場による苦しみはわからない。だから二年前はお互いに一方的な会話で終わりました。 私は、特に何も思わなかった。大変なんだろうな、というくらいしか。そして、この前、貴方が捨てた『宣誓』のせいで、私は事件に巻き込まれました。 そのとき私は、貴方を嫌いになった。貴方のことがとても腹立たしい。勝手気ままに生きて、他人を振り回し、それを楽しんでいるかのような 貴方を理解できない」




「だから?」


だから、何だと。
そんなことを今更俺に言ったとしても、お前は。

「事件は終わり、私は元の生活に戻った。貴方と関わることはもうない。困るのは騎士の方たちだけで、私ではない。 私の幸せは貴方にはわからない平凡なものです。私はその生活に戻り、貴方のことを忘れて過ごしました。そこへ、貴方が来た。私の生活を乱すためだけに」

けれど、と言いながらクリスは悲しい顔をした。








「もう、どうでもよくなりました」






悲しい顔。
クリスの両眼から、あふれる泉のように涙が流れる。


「お前をどうでもいい存在だと、俺がからかっているとでも? 俺は―」


「そんなことこそ、どうでもいいのです。貴方がどんな趣味や性癖で周りを振り回しても、結局それすらも、貴方は、浅はかな考えのままだった。 何も考えない。何も責任を取らない。何も自分で選ばない。貴方は、大公を継ぐと言った。それも忘れて、大公の庇護を受ければ言いとも言った。 その大公とは、貴方ではないでしょう。騎士たちが大公になりたければなればいいとも言った。ならなきゃいけないのは、貴方であって他の人じゃない。 貴方は、自分で言ったことを少しも覚えていないし、少しも考えない。考えて物を言わない。 浅はかで、どうしようもない。『宣誓』を捨て、拾い、そしてその後またそれを忘れた。その継承をどうしようとも、貴方は私に全く何も言わなかった。 元凶であることがどうでもいいのであれば、それを楽しみたいのであれば、貴方は、私を、好きになるべきではなかった」






何故、こいつは泣いているのだろう。
何が悲しくて。
俺を見て泣くのは、一体何のために。


「本能のまま、欲望のまま生きることも出来ない。平凡に生きることも出来ない。いつも同じことばかり繰り返して、逃げてばかりで、 これが自分の性格なのだと、自分自身を言い訳に使って、貴方は一体何がしたいんですか?」
「クリス」
「貴方は騎士にはなれない。絶対に。貴方と一緒にされたくない。ダイアナも、フレデリックも。誰も、貴方のように生きることから逃げたりはしなかった。 ―私は、わかってしまった」



涙が後から後から、クリスの頬を伝わって大地に落ちる。
あの涙一滴まで、俺のものだと、この場で言うことができたなら。俺がそう言える人間であったなら。









「貴方が、つまらない人間だということが」









あいつの言葉。
指。声。髪の毛の先まで俺の物だ。
流れ落ちた涙も、涙に濡れたまつげも、あいつの口からこぼれた言葉全部、俺に向けられた感情もすべて。
初めて、あいつが、人を傷つけるためだけに言った言葉。
否定するのではなく、事実によって非難するために、真実によって絶望させるために、俺に向けられた短い単語。
言いながら、あいつは泣いていた。
人を傷つけることに。傷つける言葉を言わなければならないことに。


その選択をとらせたのは、俺以外の何者でもない。


それすらも、俺のものだ。


クリスが初めて、俺にくれたものだ。



他の誰にも譲らない。渡さない。俺はクリスが俺以外のものになることを決して許さない。



けれど、誰かに連れ攫われるのではなく。
ただ、自分の意思で、自分の足で去っていくのなら、俺から―――離れるのなら、それなら。



それならば、いい。



俺のものにならず、誰のものにもならない。
あいつが、あいつだけのクリスでいるのであれば。
俺は、きっと。

クリスがクリスだけの覚悟を決め、たった一人で宮殿の門をくぐった瞬間、俺は、あるひとつのことを決めた。
決めたというより、あいつに誓った。
俺はクリスと同じ方向に向かい、違う目的で門をくぐった。









時が流れ、俺は大公の座についた。
継承の儀式は思いのほかに早く終わり、元大公となった俺の親父は、あっさりそれを認め退位した。
それは驚くようなことではなかったが、親父は何故か俺の補佐というような形で、暫定的ではあったが、政務やそのほかの事に対して細かな 助言をしてきた。実際動くのはお前の仕事だと、決して表に出てこず、認めたくはなかったが、親父が大公でなくとも優秀な人間であるということを、 俺は認めざるをえなかった。

半年ほど経った頃、親父が、「もういいだろう」と、あっさり宮殿から出て行ったその日、俺は共をつけずにある場所へ向かった。
公国の中で最もかび臭いと呼ばれる、学芸院の図書室は、数名の管理者が行き来しているほかは、殆ど人気がない。
元々学芸員の研究のために使われる専門的な場所であったから、一回の学徒が出入りするには敷居が高すぎるのだろう。
許可を得れば入ることができるが、それには、自分の有能さを管理者に認めさせなければならなかった。
受付で軽く挨拶し、どんどん奥に進む。
まるで葬儀場のように何の変化もない部屋。所狭しと並べられた書物に、陰気な空間。
働いている職員は、ローブのようなものをかぶり、まるで聖職者のようだ。

図書室の奥。




あまり人が足を踏み入れることのないその空間に、クリスは学芸員の紺色の制服を着て、本の整理をしていた。




「お前は、ローブを着ないのか?」
かけられた声に驚いたのか、クリスは身体を一瞬硬直させて背後に振り向き、俺の姿を確認し、そして、



「あれ、邪魔なんです」



いつか俺の書いた『宣誓』の文章が優しいと言ったときのような、穏やかな顔で笑った。




「順調のようだな」
「貴方こそ。上手く公国を治めているみたいですね。色々聞きました」
「大した評判ではなさそうだな。何せ時間がなかった。即位してからの根回しで手一杯というところだな」
「根回しして、受け入れるだけの度量があるならそれもいいんじゃないですか。相手も、貴方が有益だと思うからこそ話にのるんでしょうし」
「お前も、上手くやっているようだな」
「何か変な噂でも出ましたか? 平民が何かやらかしたとか」
「お前が入職した当初は、そんな噂もあったがな。最近ではめっきりお前の話は聞かなくなった」
「その手の話題に、飽きたんでしょう」
「お前が、それだけ半年で立場を確保したということだろう?」


クリスは自分の言葉どおり、大公の庇護を受け、住まいと職を見つけた。
正確には、住まいの提供を受け、自分で仕事をしながら、学芸院図書室の職員の試験を受け、見事に合格したのだ。
大公の後押しがあったのだ、という噂も流れたが、当のクリスが、
「たぶんそうだと思いますよ」
と、あっさり肯定したらしく、やっかみも口を塞がざるをえなかった。
ただの一般人だったクリスが学芸院に勤め始め、どれだけのことがあったのか俺は知らない。
俺とて人に構っている時間はなかったと言ってもいい。
俺たちは、同じゼクスという街に住みながら、全く顔をあわせることも、口をきくこともなく半年を過ごし、そして今、やっと再会した。



「お前が納得するような言い訳を考えてみた」
「聞きましょう」
「『宣誓』をお前に渡したのは、お前に預けておけば安心だと思ったからだ。お前を信頼してのことだ」
「なるほど」
「他にも『宣誓』を渡した相手がいるが、それは、そのとき俺は他人にあげられるものを何も持っていなかったからだ。だから、唯一の俺の持ち物である 『宣誓』を渡した」
「そうですか」
「お前についた嘘は、ただお前にゼクスに来てもらいたかったからだ。俺の側にいてもらいたかった」
「それで?」
「俺は半年前、またお前に一方的に誓いをたてた。大公を継ぎ、そして―大公としてお前の前にもう一度現れると」
「前三つは、嘘ですね」
「これが、俺が選び、俺が決めたことだ」
「大した自信ですね。私がゼクスから何処か別の場所に行っていたら、どうするつもりだったんですか?」
「それはないな」
「どうしてですか?」


アインスの古本屋で、俺が奪ったあの世界で、クリスは背の高い台を使って、頂上にある本をとろうと背伸びをしていた。
今は、クリスが自分で見つけ、自分で育てた世界で、階段梯子の上に座って俺を見下ろしている。






「お前は俺のものなのだから、俺を待っていて当然だろう?」





精一杯の虚勢。
けれど、現実にしたい真実だった。




クリスは、手に持っていた本を俺に差し出した。
『公国建国の歴史』と書かれた本。最後のページには、当然俺の書いた文字はない。
ゼクス学芸院の図書室で保管されていたその本は、あれから俺が何度も読み、一度も面白いと思ったことのない内容が書いてあった。


「今、ここに書くとしたら、何を書きますか?」
クリスが俺にそう尋ねる。
「何も」
俺がそう答える。






「何もいらない。『宣誓』はこの世からなくなればいいものだ。俺の代で、『宣誓』は終わる。その手段と共に。俺は誰にも、決して『宣誓』を 託さない。これは俺が守り、俺が死ぬまで持っていくものだ」







クリスが、また泣いた。
俺は梯子に脚をかけ、そのまま顔を両手で挟み、正面を向けさせる。
「俺を見ろ」
「こんなみっともない顔見てどうするんですか」
「俺を見ろ、クリス」
「見たくなくても見えてますよ。ずっと」
「お前は自分の意思で俺を見限った。だから、俺はお前を追わない。俺が欲しいのなら、お前が俺を追いかけて戻って来い」
「何処まで自信と自意識過剰なんですか…。半年たっても全然治ってない…」
「治そうとも思わなかったからな」
「………そうですね。性格まで変わったら、本当に別人になりますから」
「それだけか?」
「…い、今の貴方は、嫌いじゃない、です。まあ、遠くで見ている分には無害だというか…。率先的に関わりと持とうとは思いませんが…」
「本当にそれだけか?」
「他に何か?」
「俺に半年前の続きをして欲しいと、ねだるのが先じゃないのか?」
「つっ、続きって…ちょ…!」
「言っただろう。お前は俺のもので、俺は―お前のものだ」





半年前に出来なかったこと。
クリスの唇。
立場ではなく、生き方が変わった俺と、立場も生き方も何も変わらないクリスとの続き。
だが、相手は、俺と自分の顔に、がつんと『公国建国の歴史』を挟むと、言った。


「半年前に、私が言ったこと…」
「ん?」
「私が言ったことを、私」
「………まさかそれを思い出して泣いてるんじゃないだろうな。くだらない」
「く、くだらないって、そんな」
「どうでもいいだろう。もう俺には関係ないし、お前にも関係ない」
「………後悔していると、思いましたか?」
「何?」
「撤回しません。私は私の発言に責任をもちます。これは言っておかないとと、思いまし…」


俺は遮られた本を奪い取り、そのままくちづける。
半年間、本当はもっと長くお預けを食らっていたんだ。これくらい、当然だろう。


「ー! ー! ー――――!」
「噛むなら気をつけろよ?」
「やかましいわ!」
「図書室では静かにしろと、習わなかったのか?」
「誰かー! 眼鏡大公がおかしなふるまいをしてますよー!」
「お前が言ったとおりだったな」
「何がですか!?」
「大公の権力は絶大だってことだ」




誰も気づかないのではなく、誰もが気づいているのに、近寄ってこない環境を利用して、俺の目的はやっと序盤を乗り越えることができた。