明日の約束


「あれ………?」
草むらをかきわけ、小さな頭が突き出た。
真っ黒い短い髪を持つ少年は、なにやら探し物をしているらしく、視線をあちこちにさ迷わせ、周囲を見回している。
「こっちに飛ばしたと思ったんだけど………」
既に日は夕暮れに傾きかけ、周りの色も濃くなる。
ただでさえ、足を踏み入れたことのない森の風景に、次第に心配になってきたのか、幼さの残る少年の顔は曇るばかりだった。

足を踏み入れてはいけないという、聖域。
そう名づけられた森。

数年前に、一人の少女が供物として捧げられ、それによって世界は蘇ったのだという。

その当時、まだ世界の理も何もわからなかった少年は、ただ黙って大人たちが喜び合うのを黙ってみているしかなかったが、ある程度物事が理解できる今となっても、釈然としなかった。
しかも、本来ならば自分の姉がその役割を背負う羽目になったかもしれないのだ。
結果的に、供物は別の少女に選ばれたらしいが、それでもいい気持ちはしない。
特に父親は姉を溺愛しており、万が一、自分の娘が供物に選ばれでもしたら、気でも狂ってしまうだろう。
だからといって、姉の代わりに死んだとも言える少女のことを考えると、少年は、いつも陰鬱な気持ちになった。


「それにしても、ここ何処なんだよ………くそ」
乱暴な言葉で虚勢を張ってみるも、それを聞く相手は誰もいなかった。
底知れぬ聖域の森。
聖なる場所と位置づけられ、帰ってきたものは誰もいないという場所。
少年とて、そんな森に出向くつもりはさらさらなかったが、狩りの最中に、自分の小刀を誤って森の中に投げ込んでしまい、そのまま引き返すわけにもいかず、 仕方なく、境界線を越えてしまったのだ。

初めは、境界線近くですぐ見つかるだろうとたかをくくっていたものの、小刀はなかなか見つからず、少年は森の奥深くに足を踏み入れていることに、 気がつくのが遅れた。
その結果、今では自分がどちらから来たのかもわからずに、心細げに周囲を見回すだけだった。


このままでは、夜になってしまう。
野育ちとはいえ、全く知らない森の中で、夜歩き回るのは自殺行為だ。
日暮れまでに村に戻らなければ、心配をかけてしまう。
戻ったとき、ただでさえ忙しい父親に、大目玉を食らうだろう。


「はあ………」
いつも怒鳴ってばかりの父親を想像し、少年はため息をついて、腰を下ろした。
「こんなことなら、無理すんじゃなかった」
小刀は、父親から最近送られたもので、自分も一人前に認めてくれたのかと、嬉しかったのを覚えている。
勿論、それをなくしては一大事だと思ったのも事実だったが、それ以上に、姉のために、何か自分が獲ってきたものをあげたいと思ったのも事実だった。
例えば、獣の牙とか。
幸運のお守りとして、姉に何か自分で取ったものをあげたかった。
だが現実は、足を踏み入れてはいけないという聖域で散々迷った挙句、何も得ることが出来ずにいる。

「くそ………!」
苛立ち紛れに、そばにあった木の幹を思い切り叩く。
乾いた音がして、幹は僅かにゆれ、葉が落ちてきた。

「あ、びっくりした」
「!?」

突如ふってきたのんきな声に驚いて、思わず顔を上げると、そこには、
「あら?」
背中まである真っ黒な髪をした、細身の女が、木の上から降りてこようとしている最中だった。




「どうしたの? 迷子?」
「………………………」

いきなり目の前に現れた女に、図星を言い当てられ、少年は思わず言葉に詰まった。

木の上から、するすると慣れた仕草で降りてきた女は、真っ黒な髪に真っ黒な瞳を持ち、少し擦り切れた長い衣装を着ていた。
どことなく、村で見る装いとは違う雰囲気の衣服に、少年は、相手が聖域の住人ではないかと、思い立った。
特別な容貌をしているわけではないが、すらりと伸びた手足が筋肉質で、鋭敏に見える。
少年よりも背が高く、年齢は姉と同じくらいだろうか。
あまり身なりにこだわっているわけではないのか、軽く衣服のすそをはらっただけで、後は少年の返事を、真正面から待っているようだった。

「………あの」
「なに?」
女は、穏やかな声で笑いながら答えた。
あまりに敵意のない態度に、耳を赤くしながら少年は視線をそらす。

「あの………その、ここで………なくしものをして」
「なくしもの?」
「ええと、これくらいの小さな」
少年が、自分の手を広げて表そうとすると、
「もしかして、これ?」
女は、自分の懐から、小刀を取り出して、目の前に差し出した。

「あ、これ! 俺の!」
「良かった、これだったの。さっき拾ったから、しまってたんだけど」
ごめんね、と言いながら、女は小刀を少年によこした。
無言でそれを受け取り、確かめるが、傷一つなく小刀は鈍い光を放っていた。
「………良かった」
思わず安堵すると、
「良かったね」
目の前の女も、その様子を見て、にこにこと笑っている。
「あ、ありがとう、ございまし、た」
少年がたどたどしく礼を言うと、女はそれが嬉しかったのか、「いいのよ」と言ってさらに笑った。
「大事なものなんでしょう? 見つかってよかった」
「特別大事ってわけでもないけど………。その、親父からもらったばかりだったから」
「そう。だから、こんな森の奥にまで探しに来たのね」
「………やっぱり、俺、迷ったんだ」
「何処から来たの?」


女の問いに、少年が村の名前を告げると、それまでにこやかだった女の表情が変わる。


「………そう」
「?」
何か怒らせるようなことをしたのか、と、少しだけ慌てるも、女は心ここにあらずという様子で、少年から視線をそらした。

「あ、あの、俺、ここには来ちゃいけないって、ちゃんと言われてたんだけど」
「………え?」
女は、少年の言葉に、ぼんやりと視線を戻してきた。
「聖域の森には、使者が住んでるから、入っちゃ駄目だって」
「ああ、そうね」
「知ってたんだけど、どうしても、小刀を探したくて………。それで、その」
「?」
「す、すみません。勝手に、入って」
そこまできてやっと、女は、少年が自分に対して謝っているのだと気づいたのか、逆に慌てて話し出した。



「あ、違う、違うの。私は別に使者じゃないの。確かにこの森に住んではいるけど、ただの人間。君と一緒」
「………そうなのか?」
「そう。だから、安心して。別に何もしないし、怒ったりもしてないから」
「そっか」
「うん」
「あれ? じゃ、この森に使者はいないのか?」
少年の問いに、女は困った顔をした。
「うーん、いるような、いないような………」
「?」
「前はいたけど、今はいないというか………。前もやっぱりいなかったといえばいないし………。微妙なところかなあ」
「なんか、よくわかんない」
「ごめん。私も上手く説明できないんだけど」
「他に住んでる奴、いないのか?」
「いるよ」


そう言って、何故か女は嬉しそうに笑った。


「ふーん。じゃ、村もあるんだ」
「それはない」
「なんか、あんたの言ってること、わけわかんねえぞ。だって他に人間たくさんが住んでるなら、村あるだろ」
からかっているのか、と思わず少年が眉間にしわを寄せると、
「ええと、たくさん住んでいるかと言われると、どうなの………かな?」
やはり歯切れの悪い返事がくる。
「なんだよそれ」
「ごめん、ごめん。でも、別に私は君をどうこうしようという気はないから」
「されてたまるか。あんたみたいに、ぼーっとした奴に」
「え? 私ぼーっとしてる?」
「してる」
「え。そんなはずないんだけど。今も昔も運動は得意だし」
「そういうずれた答えが、ぼーっとしてるって言うんだよ」

すっかり毒気を抜かれた形になった少年は、呆れながら、目の前の女を見上げた。
女は、少し困った顔をして、それでも笑っている。

「変な奴」
「あ、それはよく言われる」
「なあ、あんた、ここの森に住んでんだろ?」
「そうよ」
「じゃ、よく獣が取れる場所とか、知らない?」

少年の乱暴な言葉にも、特別気分を害した様子もなく、女は目を瞬かせた。

「獣?」
「うん。こう、牙とか生えてるやつ、いないかな」
「いるとは思うけど、どうするの?」
「狩って帰る」
「危ないよ」

子どもを心配するような声音に、少年はむっとして、女を睨み上げた。

「危なくなんかない。この小刀をもらったからには、俺は一人前の男だ。狩り一つできて当然だろ」
「それでも、やっぱり危ないよ。この森の獣は人間に慣れていないから、外の世界よりは狩りは楽かもしれないけど、小刀一つじゃ、ちょっと無理だよ。もうすぐ日も暮れるし。 闇夜の中で、狩りをするのは、やめておいたほうがいいよ」

女は、少し膝をかがめて、少年に諭すように言う。
額と額がくっつきそうになるくらい、顔を寄せられて、少年は思わず後ずさった。

「な、なんだよ」
「あ、ごめんごめん。近すぎたね」

そう言って、女は少し顔を上げた。

「ともかく、ただでさえ不慣れな森で、狩りはやめておいたほうがいいと思う。他にも獣はいるけど、君、まだ一人で狩りしたことないでしょう?」

またしても図星をさされ、少年は顔を赤くした。
女はその様子に気づいていないのか、さらに近づいてくる。

「一つしかない大切な命を、危険にさらすような真似をしちゃ駄目だよ。ご家族の方も、きっと心配してる」
「子ども扱いすんな!」
「そんなつもりはないけど………。もう少し、大人たちと一緒に、場数を踏んでからのほうがいいよ」
「それじゃ遅いんだよ! 姉ちゃんの結婚には………」
「結婚?」

言ってからしまった、と思ったものの、女は少年の次の言葉を黙って待っている。
渋々、もうすぐ姉が結婚するのだということを告げ、そのために、何か贈り物をしたいのだと、少年はぼそぼそと小さな声で言った。




「………なるほど………」
「………………………」
女は納得し、少し考え込む様子を見せたが、
「牙じゃなきゃ駄目?」
「え?」
「他のものじゃ駄目かな」
「別に………駄目じゃないけど」
「良かった。なら一緒に行こう。案内するから、ついて来てね」
すたすたと、少年を追い抜かして、森の奥に進んでいこうとする。

「ちょ、ちょっと待てよ!」
「なに?」
「他のものって、何かあてでもあんのかよ」
ぶっきらぼうな物言いに、女は、にこりと笑うと、
「とびきりの贈り物を用意して、お姉さんを驚かせてあげよう」
足取りも軽く、少年に手招きをした。



「………何処まで行くんだよ」
「もう少しで着くから。心配しないでも、帰りはちゃんと送っていってあげるよ」
「………………………」

すっかり手玉に取られた形になった少年は、ぶすっとした態度のまま、無言で女の後に続く。
この森に慣れているらしい女は、すたすたと軽快な足取りで、道なき道を進み、目的地に向かっているようだった。
時折、周囲の様子を気にしているのか、立ち止まり、耳を澄ます。

「どうした?」
「別に、なんでもないよ」
何があっても、すぐに対応できるように、身体が勝手に動くのだと、何故か女は悲しそうな顔で笑った。

「別に、何も見えないけど」
「君にはそうでも、私には見えないから」
「はあ?」
「じゃ、行こうか。本当にあとちょっとで着くよ」



女の言葉通り、必死になって後を着いて来た少年の前に、真っ白な世界が広がる。
夕暮れの色に染まりながらも、その色は輝きを鈍らせることもなく、ただ白い。
真冬に吐く息のように、穢れのない真っ白な花の群れに、少年は目を丸くした。




「どう?」
「すっげー!」
「ね、きれいでしょ。これならお姉さんも喜んでくれるんじゃないかな」

喜ぶもなにも、飛び上がって涙を流すかもしれない。
こんなにきれいな花は見たことがないし、結婚式にはうってつけだ。

「すげえ! 俺、こんなにいっぱい花が咲いてんの、見たことない!」
「本当に凄いよね。私もここに来るまで、見たことなかった」

その言い方に少しひっかかったものの、少年は目の前に広がる花園に、興奮が抑えきれず、周囲を見回すだけで精一杯だった。

「これ、摘んでいいのか?」
「勿論。いくらでも持って帰ればいいよ」

女は笑って、少年の様子を眺めていた。

必死になって、大地に咲き誇る花を摘んでいる少年。
姉の結婚のためだと、こんな気味の悪い森にまで、足を踏み入れてきた、向こう見ずな。
少しだけ過去の自分を思い出し、女は、少年の背中をぼんやりと眺めた。
あの頃とは違い、もう、誰でも自由に出入りできる。
花は花粉を飛ばし、いずれ、森の外でもこの花は咲き誇るだろう。
その第一歩が、今日であれば、こんなに嬉しいことはない。



「これくらいあればいいか」
「随分摘んだね」
抱えきれないくらいの白い花を抱えた少年に、女は懐から布を取り出し、渡す。
「包んで持って帰ればいいよ」
「………ありがと」
「どうしたしまして」
少し変わった肌触りの布に、少年は摘み取った花をまとめて包んだ。
それを手に持ち立ち上がると、女は少年に向かって言った。

「お腹すかない?」
「はあ?」
「帰る前に、少し寄り道して、美味しいもの食べていかない?」
唐突な発言に、目を白黒させながらも、空腹を抱えた少年に断る理由もなく、またしても女に案内され、聖域の中を散策することになった。




歩いている最中、少年からの問いに女は答えたが、逆に質問をしてくることはあまりなかった。


「あんた、年いくつ?」
「ええと、二十一か、二十二………かな」
「自分の年もわかんねえのかよ」
「ははは」

自分の姉と同い年にしては、落ち着きもあまりないし、どことなく受ける印象が子どもっぽい。
形にとらわれていないというか、女らしさはあまり感じられないし、特別本人もそれを態度に示さなかった。

「他の連中、出てこねえな」
「広い場所だから」
「そっか」
「実際、私もこの森全部把握しているわけじゃないから。今でも迷いやすいのは事実だしね」
「ふーん。やっぱりそうなんだ」
「ん?」
「この森は、入ったら二度と出られないって、皆言ってる」
「………そうだね」

突然に曇る女の横顔を見上げ、少年は首をかしげる。
どうも、この女の機嫌はよくわからない。
こちらが乱暴な言葉遣いをしようが、意にも介さないが、聖域に対する伝承の話になると、あからさまに悲しげな表情を浮かべる。

「でも………出られるんだろ?」
「え?」
「帰り」
「ああ、勿論。ちゃんと送っていってあげるから」

大丈夫、と、女はすぐに明るい表情に戻る。
そんな様子を見て、少年は気づかれないように胸をなでおろす。
女はそんな少年の気遣いに、気づいているのかいないのか、真っ直ぐに前を向いたまま、軽やかな歩調で大きな木の元まで案内した。




「おーでけえ木」
「この木はね、凄く美味しい実がなるんだよ。見える?」

指を指されて目をこらすと、なるほど、天上近くに、無数の実がなっているのが見えた。

「見える、見える」
「目がいいね」
「そうか? 普通だろ?」
「あれね、凄く甘くて美味しいんだよ。あれも少しだけお土産に持って帰るといいよ」
「へえ」
「花も持ってるから、ほどほどにね」
「わかってるよ」
「じゃ、ここで待っててね」
「………ええ!?」

何を言い出すのかと思いきや、女は少年の肩をぽん、と叩くと、するすると木に登っていってしまった。


「ええー!? あんたが登るのかよ!」
「登りなれてるから」
「それが大人のすることか!」
「君より、私のほうが木登りは上手だよ」
明るい声が頭上からふってくる。
すでに枝葉に隠れて、女の姿は時折しか見えない。
「お、おい。危ないぞ!」
「平気よ。いつもしてることだから」
「いつもこんなことしてんのか、あんたは!」
大人の態度とは到底思えない女の仕草に、少年は呆れて大きく口をあけた。
いくらなんでも、行動が突飛すぎる。
仮にも、結婚していてもおかしくないくらいの年齢の女が、するべきことではないように思えた。

「ちょ、ちょっと。おい、いい加減に降りて来いよ。果物なら俺別にいいから………」
「そんなこと言わないで。もう降りるから」

その言葉通り、女は初めて出会ったときのように、するすると降りてきた。
疲労の色一つ見せず、
「はい」
と、橙色の果物を少年に差し出す。


「………………………」
「どうしたの?」
「あんたさあ、落ち着きがないとか、よく言われない?」
少年の言葉に、
「よく言われる」
女は恥ずかしそうに笑った。




「男の人って、皆同じようなこと言うんだね」
「それだけ、あんたが心配させるようなこと、するからだろ!?」

女と少年は、並んで歩いていた。
既に日は落ちかけ、夜の帳が広がろうとしている。
闇の深くなってきた森の中、女は、全く気にする様子もなく、歩いていた。
少年が、薄暗くなってきた世界で、目をこらして障害物をよけながら歩いている姿を見て、やっと、世界が夜に傾こうとしているのに気づいたのか、 「ごめんね」と言って、歩調を落とした。

女が採ってきた果物は、文句なしで美味しかった。
一つをあっという間に平らげ、残りは土産にと、懐にしまう。
食べないのか、と女に尋ねると、
「私、あんまり食べ過ぎて、その、最近少し太ってきちゃったから………」
恥ずかしそうに女はうつむいて答えた。

近くで見れば見るほど、女は痩せていた。
不健康で痩せている、というのではなく、身体全体に無駄な筋肉が一つもない。
女性らしい身体の丸みもあるが、着物から覗く腕や足は、すらりと長く伸び、機敏な動作が一瞬で行えることを示していた。
言動におかしな部分はあれど、苦もなく木に登ったり、すたすたと夜の森でも疲れの色一つなく、歩き回っていることを見ても、 運動神経に長けているのは間違いないらしい。

大体こんなに痩せているのに、太ったと気にしていては、自分の姉など、どうなってしまうのか。
最近、幸せ太りのせいか、ますます横広がったような姉の体格を思い出し、少年は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「………俺は、そんなに気にすること、ないと………思うけど」
「なにが?」
「その………体重とか………」

頭一つ低い、少年の横顔を見ながら、女は心から嬉しそうに
「ありがとう」
そう言って、目を細めた。




夜が近づき、森はどことなく不気味な雰囲気を漂わせている。

「………………」
「どうしたの?」
「べ、別になんでも」
「大丈夫だよ。何もないから」

女ははっきりと断言して、真っ直ぐに前を向いて歩いている。
何も恐れることはないのだ、とでも言いたげに。

「でも、ほら………やっぱりここ、聖域だし」
「………………………」
「入っちゃいけない場所だって、言われてるわけだし」
「………………………」

女は、答えなかった。
落ちてきた闇に照らされて、白い顔に影がさす。
少年は、その顔を見上げて、何故か理由もなく不安になり、小走りで女の横から少しも離れないように、歩き続けた。




女は約束をたがえることはなく、間違いなく少年を森の境界線まで、無事に送り届けた。

「ほら、着いた」
「本当だ」
「慣れるまでは、やっぱり一人で歩かない方がいいよ。歩くときは、ちゃんと目印をつけるのを忘れずにね」
「わかってるよ」
「本当?」
「わかってるってば」
「なら、気をつけて帰ってね。ご家族も、お姉さんも、きっと皆心配してるよ」

森の外からは、青い月がよく見えた。
細く長い、あの月が昇る前に帰って来いと言われていたのを思い出し、少年は慌てて駆け出す。

「じゃあね」

女の声が、少年の背にかけられた。

優しい声。
体つきや、行動は落ち着きのない少年のようであっても、声は穏やかな女性の声だった。

駆け出した少年はしばらく進むと、急に歩くのをやめ、くるりと振り返る。







「―何もなかった」
「え?」

振り返った少年に、女は少し離れた場所から返事をする。

「この森は、聖域かもしれないけど、危ないこと、何もなかった」
「………………………」
「二度と出てこられないって。村の皆は、きっと、恐ろしい化け物がこの森に住んでるんだって、言ってた。その化け物が、人間をさらっていってしまうんだって」
「………………………そう」
女の顔は、闇にまぎれて、少年からはよく見えない。



「でも、違ってた」
「え?」



少年は、必死に叫んだ。
悲しい声も、悲しい表情も見たくない。
あの人は、笑っていなきゃ、駄目なんだ。


「何もなかった。ここは、ただの普通の森だ。おかしなところもなにもない。花が咲いていてきれいで、美味しい果物もあって。 化け物なんか、いなかった。いたのは―あんただけだ」


背中まで伸びた女の髪が、さらりと揺れる。

「だから、俺はもう、この森が怖くない。ちっとも怖くなんかないぞ」

森の木々の間から、うっすらと月の光が降りる。
誰かの喜びを彩るかのように、優しい黄金の光が。
それは、満月だったのだろうか。
それとも、薄く細い新月の光だったのだろうか。

「だからもう、子ども扱いするなよな。俺、また来るから」
「………うん。また来てね」
「明日にでも、また来るぞ!」
「うん」


女は笑っていた。
少なくとも少年にはそう見えた。
月の光に照らされた女は―とてもきれいだった。
満ち足りた表情をして、少年に小さく手を振る。
その姿を最後まで瞳に映して、少年は、姉の待つ村へ走って戻っていった。









どうした、と帰りの遅い女に向かい、誰かが声をかける。
女はその言葉を受け、黙って相手の胸に飛び込んだ。
どうした、と相手が女の背中を優しく撫でながら言う。
女は一言、「嬉しいから」と答えた。




「嬉しい?」
「うん、嬉しいの」




この森が、もう聖域ではないことが。
ただの、何処にでもある、普通の森であることが。
遮るものは何もなく、永遠の世界など何処にもなく、来るべき滅びを受け入れるだけの世界であることが。

嬉しくてたまらない。
幸福でたまらない。

ここはもう、供物を求めるものも、使者も、すべて必要としないのだ。

ただ、生きている。
それだけでいい。
それだけで充分だった。

それを求めて、積み重ねてきた幾千万。
流れてきた時代の果てに、この場所は正しい姿をやっと取り戻した。


抱きしめるそれぞれの幸福を、確かに約束して。



『Nights of the Knife』







『陸路の果て』